以下は前章の続きである
川島少将の告白 親ソ派も…
ハバロフスク裁判の被告と証人の多くが帰国後堅く口を閉ざしているなか、川島清少将と三友一男軍曹の二人が手記を残している。
それぞれ『蘇武の賦』と『細菌戦の罪-イワノボ将官収容所虜囚記』という。
前者は私家版であり、今までほとんど知られていない貴重な記録である。
川島清少将は昭和21年7月、ハバロフスクの「赤の監獄」で内務省(MVD、のちのKGB)の秘密警察から関東軍防疫給水部の細菌戦準備の研究について厳しい追及を受けることになる。
MVDは「細菌戦準備が天皇の命令によるもの」であることを執拗に追及してきたが、川島はそれを固く否定して譲らなかった。
ソ連側も川島が将官であることからさすがに手荒な真似はできなかったようだ。
「取調べも大体紳士的であり、言葉遣いも鄭重であった」が威嚇することもあり、取調べは延々と3ヵ月も続いたのである。
孤立無援のなかで川島は「己れの精神力の弱さを悲しみながらも、一日一日を必死に戦った」辛さをこう語る。
《執拗な、繰り返し追及してくる彼らの辛辣な訊問に、私は心身共に疲れ果てていた。出口のない絶望の日々が、私を打ちのめしていた》
川島清は取調べについては言葉少なであり、具体的な生々しいやり取りは記していない。
おそらく書くに書けなかったのだろう。
子息の川島洋が「あとがき」に書き留めていることはきわめて示唆的である。
洋は、父の清が新聞の折り込み広告の裏に鉛筆で書いた原稿を原稿用紙に書き写す作業をしていたが、「赤の監獄」の章にきたとき思わず息を呑んだという。
《いつもは広告の裏面に鉛筆で丁寧に書かれた父の筆跡が、この時は千々に乱れて書体をなさず、震えおののくように行間も乱れ、そこには言い難い苦悶とも呻吟とも知れぬものが、見るも無残な姿で深い翳りを落としていたのです。(中略)そのとき「監獄での監禁と訊問のとき」からすでに20数年たった今でも、そのときの不安と絶望は、父の心奥深く抉り、それが原稿の乱れとなっていたのではないでしょうか》
そうに違いない。
収容所国家ソ連、その悪名高いMVDの取調べは現在の我々には想像を絶する苛酷さなのだ。
帰還後何10年か経ってもシベリアの悪夢にうなされるという人が少なからずいたほどである。
この稿続く。