文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

なにより今後20~30年もの間、民主化が進まなければ、中国経済の成長エネルギーは自然に枯渇していくしかない。

2019年06月05日 23時24分39秒 | 日記

以下は月刊誌「正論」今月号に掲載された中西輝政氏の論文である。
日本国民全員が必読の論文であるだけではなく世界中の人たちにも必読の論文である。
以下は「歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝をめぐる内政干渉から、近年の尖閣諸島への執拗な領土侵略行為へと、平成年間、中国による我が国への主権侵害はエスカレートする一方だった。」の続きである。
民主化の可能性は存在した 
天安門事件を今日振り返るにあたって、そして日中関係の未来を考えるにあたって最も重要な観点は、「中国の民主化の可能性」という点である。
共産党独裁の体制を放棄した中国に対してなら、我々はこれほどの緊張感をもって中国の行方を見つめる必要はないからだ。 
中国共産党はあの時、学生たちの民主化要求に人民解放軍による武力行使で応えて一党独裁体制を守った。
そして現在、習近平指導部のもと一段と独裁性を強めようとしている。
その強権姿勢は外部にも向かい、南シナ海、東シナ海へなどの周辺海洋への進出、あるいは「一帯一路」構想によるグローバルな覇権への挑戦という大きな動きにもつながっている。 
平成年間に急拡大した経済や軍事の力で、自国の国民のみならず他国をも従わせようとするその基本姿勢をみると、もし天安門事件が別の解決の仕方をしていたら、つまりあの時点から、たとえ徐々にでも民主化が進んでいたら、という「歴史のif」さえ問わざるを得ないのである。 
事件の背景を検証すると、文化大革命が1976年、毛沢東の死去によって終息へ向かい、78年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)で、鄧小平が国家の指導権を実質掌握して「改革開放」路線を打ち出した。
これは単なる経済成長戦略のように受け止められがちだが、会議では同時に、学生たちが周恩来の死を契機に天安門前で民主化要求デモを行った「第1次天安門事件」(1976年)の肯定的再評価も行われており、実は「改革開放」に踏み切った中国の新たな共産党体制は徐々にではあっても民主化していくことをも含意していたのである。 
80年代に入ると、ポーランドで自主管理労組「連帯」が発足(1980年)し、85年には旧ソ連でゴルバチョフ政権が成立して、「ペレストロイカ」という名の政治改革が始まった。 
この結果、80年代後半には、東西冷戦で自由主義陣営に対して敗色濃厚となったソ連が共産主義・社会主義の旗を降ろすのではないか、全体主義をやめて民主化するのではないかという議論が世界の大テーマになっていった。
そして、これが天安門事件の導火線にもなったのである。 
実際、中国では86年以降、各地で学生たちの「民主化要求」デモが頻繁に起きており、共産党最高指導部でも胡耀邦、趙紫陽という2人のリーダーが先頭に立って大胆な民主化を進めようとしていた。
しかし民主化に反対する党長老を中心とした保守派との路線闘争が指導部内で起こり、胡耀邦は87年に総書記を解任される。 
その失脚した胡耀邦が89年4月に死去したことを契機に、学生たちの民主化運動は天安門広場の占拠にまで急拡大した。
胡耀邦の後継総書記だった同じく改革派の趙紫陽は学生側を擁護したため、党内の反発を招き失脚、最終的に鄧小平が学生たちを武力で鎮圧する戒厳令の布告を決断した。
6月3日夜から4日にかけて人民解放軍の大部隊が出動し、一説には死者は数千人、全容すらいまだはっきりしないほど多数の学生、市民らが殺戮される大惨事となった。 
騒擾は北京にとどまらず、上海や広州、西安など各地に飛び火し、中国は一時、飛行機も飛ばず、外の世界と完全に切り離されて、外国人も出国できない事態となった。
まさに内乱前夜、中国共産党が「崩壊」の瀬戸際に直面する事態に立ち至ったのである。 
ここで重要なことは、事件に先立つ2~3年の間に、最高指導部を含めた中国共産党内部で、あるいは体制派のエリート知識人や学生たち、さらには多くの地方組織で指導的地位にあるサブリーダーたちが、中国の民主化の可能性を日夜真剣に議論していた、という事実である。
現にこの頃、中国各地を訪れた筆者も、あちこちでそれを見聞したものだ。 
他方で、人口13億人という巨大国家を、権力分散型で時には指導部に対する抑制という形で体制に遠心力も働く政治システムである近代民主主義の統治体制で果たしてまとめきれるのか、やはり中国は独裁政権でないとまとめきれないのではないか、という有力な見方は昔からあった。
また後述のように、権力による絶対的支配を正統化する文化的素地も中国には今日も根強くある。 
しかし筆者には、中国共産党がこのままの独裁体制を今後半永久的に、50年・100年というスパンで維持できるとは到底、思えない。
現在の党指導部は、ITやAIという電子技術の進歩を国民の監視という独裁手段の強化に利用しているが、それらはほんの少しでも状況が変われば、逆に民主化の追い風にもなる「諸刃の剣」でもある。 
なにより今後20~30年もの間、民主化が進まなければ、中国経済の成長エネルギーは自然に枯渇していくしかない。
マクロ経済政策が国家の統制管理という「独裁の論理」だけに従って動かされたら、経済成長余力は徐々に、あるいは早晩枯渇せざるを得ないからである。
それは自由な市場経済の発展を妨げ、「大いなる非効率」に陥ることを、かつての旧ソ連だけでなく多くの権威主義体制をとる中進国の停滞現象が証明している。
もし、中国が2049年までにアメリカを凌ぐ“世界の一流国家”になるという「中国の夢」を追い求めるのなら、どこかの時点で中国は民主化へと踏み切ることが避けられないだろう。 
今日、天安門事件について考えることは、単なる歴史の回顧にとどまらず、未来に向けた中国の民主化の可能性に思いを巡らせることにつながる。
それほとりもなおさず令和の時代の日本という国の存立を左右する問題であることを知ることでもある。 
天安門事件を現代史・文明史の文脈で考察するうえでの2つ目のポイントは、天安門事件を経験しなければ、中国は今日、アメリカの技術覇権に挑戦するような世界第2位の経済大国の高みに達することはできなかったはずだという「歴史の皮肉」である。 
旧ソ連が崩壊した時、政治の民主化から改革を始めたロシアの経済は長い低迷の混乱期に入った。
それを乗り越えるために今日、口シアは「ポスト共産主義の強権政治」を必要とし、その結果、誕生したのがプーチン政権である。
しかし独裁政治は「利権経済」を出現させ、健全な市場経済は育成されず、石油という唯一の資源産業に依存することによってかろうじて独裁体制が保たれるーという負のスパイラル構造に陥っている。
ソ連型改革の失敗が尾を引き、プーチン体制に見られるように自由経済の本来的発展原理の芽を摘まなくては政治と経済の安定が保てなくなっているのである。
その意味で、天安門事件がなければ中国は、民主化は進んだかもしれないが、ロシア同様の経済の困難にぶつかっていたともいえるのである。
対中制裁網はなぜ破綻したのか 
しかし、そこで1つの疑問に突き当たる。
自国の正規軍まで使って、自国民の「虐殺」という暴挙に出た中国という国について、少なくともアメリカを中心とする西側諸国は、価値観が自分だちとは決定的に相容れない国であると、あの時はっきりと認識したはずである。
それなのに、その後、なぜアメリカなど西側諸国は中国にあれほど甘く対応したのか、という疑問である。 
天安門事件後、確かに西側諸国(ここでは主としてG7など、当時の主要先進諸国)は厳しい対中制裁を課した。
しかし他方で、事件直後から、自由や民主主義といった理念を何より重視しているはずのアメリカ合衆国による無原則とも思える「対中再接近」が始まるのである。
なんと事件翌月の89年7月、当時の父ブッシュ政権は大統領の腹心の一人、スコウクロフト国家安全保障担当大統領補佐官を訪中させ、同年12月には同補佐官とイーグルバーガー国務副長官らを「特使」として派遣した。
ブッシュ大統領はこのとき早くも制裁緩和を示唆し、91年11月には対中制裁の一環として高官の訪中を禁じていた国際合意も無視してベイカー国務長官までもが訪中したのである。 
このアメリカの不可解とも言える姿勢が、対中制裁網がやがて破れていく―そして、今日の世界覇権をめざす超大国中国への歴史的歩みが始まる―有力なきっかけの1つになったことは間違いない。
特に事件翌月のスコウクロフト氏の訪中は、同盟国である日本にも知らせない極秘訪中だったことを我々は肝に銘じておくべきである。 
思い返せば1971年7月のキッシンジャー極秘訪中と、ニクソン大統領訪中計画の電撃発表もそうだった。
この時もやはり、アメリカ外交のそれまでの基本路線に追随して中華人民共和国を承認していなかった同盟国・日本には一切事前に知らせなかった。
このまさに「頭ごなし」のアメリカの対中接近に慌てた日本は焦って「日中国交正常化」に突っ走り、翌年9月に訪中した田中角栄首相が日中共同宣言に署名した。
同時に中国の要求をのんで台湾との国交を一方的に断絶し、現在にいたる禍根を残すことになったのである。 
筆者はいまも、戦後日本の運命を決定的に変えたものは、1つはキッシンジャー訪中であり、もう1つがこの(父)ブッシュ政権の天安門事件後の中国への対応だと考えている。
そして、この2つが示していることは、米中にはどこか隠微で、外からは容易にうかがえない不可解な関係があるということである。 
その「深淵な絆」の一端が、近年、ようやく表に出てきた。長く米政権の対中関係の最前線で活動し、現在のトランプ政権の対中強硬政策にも関わっているマイケル・ピルズベリー氏の『China 2049 秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」(原題“THE HUNDRED-YEAR MARATHON”』(日経BP社、2015年)の出版によってである。 
同書については、すでに多くの紹介もなされているが、中国は建国100年の2049年までにアメリカに代わって「世界覇権」を握ろうと着々と手を打ってきたのであり、そのためにしばしばアメリカを騙し、利用してきた―という総括とともに、アメリカが80年代、対ソ連戦略上、中国への最先端の武器技術供与や合同軍事作戦の実施など極秘裹の対中軍事協力を行ってきたことも暴露した点で衝撃的な内容であった。 
ただ、ピルズペリー氏の説明でも納得できない奇妙な箇所が、同書の随所にある。
1980年前後、鄧小平が改革開放路線を打ち出した直後、世界銀行の専門家たちが、時にはその意図を公にせず、あたかも中国と「共謀」してその中国の経済発展策を助言し、又深く関与してきたことを同書は明らかにしているが、そもそも世界銀行の関与にはアメリカ政府のお膳立てが必要だったはずである。
いったい、誰が、いつ、なにゆえに、そのような政策決定をしたのかをピルズペリー氏も明らかにしていないが、そこに米中の「深淵な絆」の存在を感じざるをえない。
このことは、さらに2000年の中国のWTO(世界貿易機関)加盟をアメリカ政府が至極安易に容認してしまったことにも重なってくるのである。 
日本人はこの、いわゆる米中陰結の「絆」に常に敏感でなければならない。
昨年10月のペンス米副大統領の「反中国演説」によって“米中新冷戦”が本格的に始まった、とわが国では盛んに言われている。
確かに、これまでのところアメリカは貿易交渉で安易な妥協は避け、制裁関税の対象や税率も拡大の一途で、強硬姿勢は崩していない。 
ただ、現在の米中対立が、中国が完全に白旗を掲げるまで、あるいは中国共産党が崩壊するまで続くなどと安易に決めてかかってはならない。
この米中の「深淵な絆」がいつ頭をもたげてもおかしくないという、二枚腰の米中関係観を持ち続ける必要があることを、天安門事件は日本人に教えているのである。 
この稿続く。


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