文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
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伊勢高校~京都大学~大阪大学大学院で東洋史学を研鑽した宮脇淳子の学識が世界有数である事は、それぞれの高校、大学の同窓生は大いに誇りに思わなければならないだろう

2019年04月19日 18時17分13秒 | 日記

宮脇淳子さんの存在を教えてくれたのは高山正之氏だったと思う。
伊勢高校~京都大学~大阪大学大学院で東洋史学を研鑽した宮脇淳子の学識が世界有数である事は、それぞれの高校、大学の同窓生は大いに誇りに思わなければならないだろう。
以下の本は、正に、日本国民全員が必読の書である。
孔子しかない中国の不安
宮崎 
国が乱れると危機を克服するのに中国では孔子が復活します。
宮脇 
孔子は20世紀になってからだけで3度生き返りました。
中華民国ができたころ日本など外国との関係が強くて西洋かぶれだった孫文に対抗した袁世凱、国共合作が破れた直後の蒋介石、そしていまの習近平です。 
まず、清朝の大臣だった袁世凱です。
1911年に辛亥革命が起こり、翌12年に南方で中華民国ができて孫文が臨時大総統に選ばれました。
孫文は大総統の地位を袁世凱に譲りますが、ふたたび第二革命を起こします。
その際、袁世凱は孫文などの文化人―科挙官僚を目指した読書人ではなく外国の力を背景に近代化を目指すーグループに対抗するために、儒教と「四書五経」を言い出すんです。
つまり、日本など外国の干渉をはねのけるために孔子と儒教を持ち出した。 
そのあと、孫文を継いだ蒋介石がふたたび儒教と「四書五経」と孔子を持ち出しだのは、共産主義に対抗するためです。
宮崎 
台北に孔子廟を持ってきて、孔子の76代目、つまり正統の孔子の末裔を台湾に運んだのは蒋介石でした。
宮脇 
では3番目の習近平が何に対抗しているかというと、つまり中国は共産主義を捨てたからです。
習近平、が「中華の夢」とか、「チャイナの伝統」とか言うのも、過去で誇れるものといったら孔子しかいないからだと思います。
北京オリンピックの開会式でも、漢字と羅針盤と鄭和の遠征を演出していて、毛沢東と共産主義はありませんでした。
宮崎 
あのクチパクと足跡の花火とテーマソングくらいしか北京五輪の印象は残っていません。
直後から世界中に孔子学院を開校し、中華悠久の歴史を広報するとした。
ウラジヴォストークヘ行っておどろいたのですが、日本文化センターの隣が孔子学院でした。
宮脇 
北京五輪で55の少数民族の子供たちが仲良く旗を掲げて行進という演出も、服を借りているだけで全員漢族の高級幹部の子弟でした。オープニングに漢字をぱっと出したでしょう。
シナの伝統といえば、よりどころがもう孔子様しかない。
宮崎 
煎じ詰めて言えば、漢字にしても昔の繁体字に戻さなければいけないと思います。
いまの簡体字なんて、本字に縁もゆかりもない、ただの記号じゃないですか。
速記と同じです。
宮脇 
意味も何もない。
宮崎 
ぜんぜん読めない字がある、だいたい想像できるのだけどね。
たとえば横棒三本に縦棒一本…。
これなんですか?読めないでしょう。
これトヨタの豊って字なんです。
宮脇 
そうか。だからみんなで悪囗言ってて、雲(簡体字=云)には雨がなく……。
宮崎 
愛(簡体字=愛)には心、がない(笑)。
宮脇 
本当にみんなで笑い話にしているようなもんですよね。
李鴻章の後継者・袁世凱が中華民国を成立させた
宮崎 
一種の文化迫害なんだけど、逆にいうと、よくあれで統一しているなと思います。
まあ、それはともかくとして、最初に孔子で対抗した袁世凱はそれほどの教養人だったの?
宮脇 
教養人とは言えないけれども、それでも一応「四書五経」を勉強した科挙官僚だから、古い漢字の資料が読める読書人です。
私からみれば孫文よりはるかに政治が上手な男だなとは思います。だって、清朝時代に朝鮮総督のような地位にあったのですよ。
日清戦争の最中には李鴻章の一の子分として日本と戦った人だし、それから中華民国総統に選ばれたあと、諸外国との間に五国借款も結びました。
宮崎 
ということは外国知識と歴史的な基本要素を知っていなきゃできない。
宮脇 
李鴻章の後継者ですし、かれがいなかったら中華民国は成立していない。 
だいたい辛亥革命とか中華民国とか、立派な名前を使うからいかにもちゃんとした革命運動であり、民族国家だったように日本人はかん違いしますけど、中国語では「武昌起義」といって、清の南方の地方軍長官のクーデターにすぎないのです。
しかも武装蜂起したのはほとんどが日本の陸軍士官学校卒の軍人で、当時のシナ大陸にはまだ共通語もないから、日本語で連絡を取り合ったそうです。
誰も頭になれるほどの人物はおらず、このままだとまとまらないからと、日本や欧米に知られた孫文を臨時大総統という名前の頭の飾りにかついだわけです。
孫文は革命になんの役にも立っていませんし、軍隊に直接の子分もいません。 
これに対して袁世凱は、清朝最大最強の北洋軍の長ですから、本気で革命討伐にあたれば、革命軍はひとたまりもありません。
でももし内乱になったら、清朝の領土は諸外国に切り取られることくらいは孫文もわかっていたから、袁世凱にしぶしぶ大総統の地位を譲ったわけです。
袁世凱が主人である清朝の支配層を説得して、1912年2月に清朝が平和裏に禅譲したから中華民国が成立したというのが私の意見で、孫文なんかぜんぜん話になりません。
客家とは何か
宮崎
孫文はペテン師だもの。
西洋も日本も騙した。
宮脇 
しかも、客家コネクションのおかけで登場できた。
宮崎さんの本をいっぱい読んだので、どれに書いてあったかちょっと思い出せません、が、客家が何かの王朝の傭兵になって南方に拡がったように書いてらしたと思いますけど、客家は傭兵になったことはないと思います。 
客家というのは何かというと、もともと中原といわれる黄河中流の文明発祥の地から、十三世紀にモンゴルに追い出されて最後に南下した語族です。
元朝を建てたフビライが西安あたりの一帯を個人的に所領して、自分の家来の遊牧民などを入植させた。
あのあたりは、ちょうど昔から遊牧民と農耕民の接壌地帯にあたり、黄河の南の河南省まで、両岸の村は、じつはほとんどが先祖は北からおりてきた遊牧民なんです。
いまでは漢字しか知らないし、いかにも中国人のような名前ですが、系図の始まりの祖先にモンゴル人の名前が漢字で書いてある。
そんなにトップクラスじゃないモンゴル人たちがあの辺に入植して、それがずっといままで住み着いているんです。
それで、もともとそのあたりに住んでいた人たちが玉突き現象で追い出されて、南宋時代くらいから南下しだのが客家なんです。
客家という漢字はよそ者という意味ですから、もともと南方にいた、おそらく越などのタイ系を起源とする福建人や広東人がそう呼んだのでしょう。
宮崎 
南宋の人たちは元寇に駆り出されて海の藻屑と消えるか、それから河を渡って、南へ逃げたでしょう。
元寇に駆り出された人たちは、平戸、松浦あたりで海に沈んじゃいましたが……。
あれは言ってみれば傭兵ではないのでしょうか? 
だから客家の家である、いわゆる「土楼」も福建省と広東省の山奥に集中してるんです。
ほかにない。
宮脇 
元寇に駆り出された南宋の人たちは、傭兵というより棄民ではないかと私は思います。
ところで客家ですけど、沿海のいい地帯はすでにみんな他の語族が農地にしてしまっていたから、山側の荒地のところしか空いてなかった。
それから四川省にもちょうどモンゴル時代に新たに入植しました。前章でも軽く触れましたが、一度宋の時代に人口が激減するんですよ。
宮崎 
飢饉かなんかでね。
宮脇 
それで客家や何かが入植して四川の人間が入れ替わる。
モンゴルはもともと遊牧民で、シナ大陸も西側はけっこう馬で進めるため、北の草原から、大陸の真ん中を通って四川までモンゴル軍がそのまま入っています。
沿海の河の水量が豊富なところは騎馬では無理なので内側から行くんです。
モンゴル軍は大理国を先に攻めてますでしょう。
じつは大理王国があった雲南にもモンゴル部隊の駐屯軍がしっかり住み着いたんです。
いま雲南で系図が発見されて、じつは私たちはモンゴル人だと言い出して、中国政府から蒙古族として認められた人たちがいます。
宮崎 
そういう例は多いですね。
宮脇 
客家に話を戻すと、だから客家は、自分たちはもともといちばんの中心地から来た、古い文明の中心の中原から来た、というプライドが強い。
どんなに貧乏でもです。
山がちで豊かでない土地に入植して女性も労働力として必要だったため、絶対に纒足はしないし、教育熱心で、人間関係のネットワークも大事にしました。
この稿続く。


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