先日、歴史通の発売日に書店に行ったら、発行元のワック出版は、Will7月号増刊歴史通として、追悼、知の巨人、渡部昇一、まるごと一冊、永久保存版として、特集号を発行していた。
私が、私の故郷である宮城県の隣県、山形県の出身者である渡部昇一氏の論文を読みだしたのも、3年前の8月以降の事である。
この特集号は日本国民全員が書店に向かい購読すべき書物である。
今日、先に読んでいた私の友人は、渡部昇一の「少年A」があるよ、と言って、ある章を指示した。
今年、私は数年ぶりに、
江戸時代の侍たちも愛で、彼らの教養と文化の一部でもあった、各種の花菖蒲が咲く花菖蒲園を、
咲き始めて以来、ほぼ毎日、訪れて撮影している。
その道中の列車の中で、私が、その章を読んでいた事は言うまでもない。
「東京裁判史観」との戦い
私と昭和史
『WiLL』創刊2周年記念大講演
渡部昇一 上智大学名誉教授
戦前の日本は暗かったと決めつけるのは大間違い。南京から帰国した兵隊の様子、真珠湾攻撃時の心情など、体験を交えて昭和史の真実を語る-
戦前の風景
戦後いろいろな方が昭和史について書かれてきましたが、だいたいの方と私は感じ方が違うと思うようになってきました。
たいていの昭和史は、戦前の日本は軍国主義だとか暗黒の時代だったというふうに、悪い国だったというところを出発点にして書かれているんですね。
そして、戦争に負けたら日本は明るい国になったという話ばかりです。
それが私が読んできた昭和史のトーンです。
しかし、私には戦前の日本が悪い国であったという記憶がまったくありません。
こう言うと、よほどいい家に生まれたんだろうと思う人もいるでしょうが、そんなことはありません。
私の家は、父も母も小学校の卒業証書を持っていない家です。
父方は東北の山の中で小学校などない境遇だったそうです。
しかし、祖父は少しばかり学があり、巻紙にさらさらと手紙を書くような人だったらしい。
その祖父と和尚さんが一緒になってその辺りの若い者に勉強を教えた。
ですから、父は漢字をたくさん知っていて、書字は非常に上手でした。
しかし、学歴はなかったのです。
母は、子どもの頃に両親をなくし、親戚の世話になって非常に苦労したようです。
『おしん』というテレビドラマがありましたが、あれなど、私の母がした苦労に比べれば大したことありません(笑)。
おしんは子守の奉公に出され、その後酒田の米問屋で苦労をするんですが、両親はずっと生きているんですね。
私の母は子どもの頃に両親に死なれていますから、これだけでも天地の差です。
母は農村の家に預けられたため、子どもでも田圃に入らなければなりません。
戦前の田圃での労働というのは雪が消えると間もなく苗代を始め、それから秋の稲刈りまで、一年中ずっと、腰を伸ばすことがありません。
そんな苦労のため、母は十歳の頃に、腰が曲かってしまったらしい。
昔の年寄りは皆、腰が曲がっていたものでしたが、十歳の子どもが曲がったのではみっともないということで、湯治にやってもらったらしいんです。
今と違って、当時の湯治というのは七輪から食べ物から皆、自分で用意して行って、湯だけ使うといったようなものです。
その湯治場にいるうちに、母もまだ十歳で若いですから、体を温めているとアメみたいにまた腰が伸びたらしい(笑)。
それでこの子は農作業では使い物にならんということで、町に奉公に出された。
そこからは、おしんと同じです。
父方、母方ともに、没落した家でした。
父の村には、大きな地主さんで宮本和吉さんという方がいらした。
この方は、庄内中学、いまの鶴岡南高校を出て大学に行って、戦前の岩波書店の哲学書などを書いて、戦後は武蔵大学の学長などをなさった。
そういう人を父は見ていた。
母の村からは、『三太郎の日記』を書いた阿部次郎さんなどが出ています。
日本に生まれて幸せだった
父と母は田舎から出てきて、鶴岡で一緒になったわけですが、いわば貧民階級です。
しかし、幸せだったことに、私の父は学歴はなかったけれども勉強をしたいという気持ちが
この稿続く。