既述の様な事情で、ネットに登場することを選択した2010年は、週刊朝日とAERAを購読していた。
登場して間もない頃に、井上ひさしと大江健三郎の対談が特集記事として掲載された。私は、それを引用して紹介したのだが、
その時には、私も全く気が付かなかった馬鹿なことを井上ひさしが言っていた。
朝鮮半島から強制連行100万人などと、彼は、何の疑いも持たず、全く事実であると信じ切って発言していた。
今どきの若者風に言えば、『100万人も強制連行して、どうするんだよ、物理的に無理だろう。』
つまり、彼や大江などの、いわゆる戦後派文化人たちには、経済感覚や経営感覚が全くなかった事を、彼の発言は証明している。
彼らの対極にいたのが、伊藤博文であることも、明瞭に告げている。
伊藤は、「あんな貧しい国を併合してどうするんだ」と言ったのである。
明治維新が単なる革命ではなく、世界史にも稀な、身分差別制度を一気に撤廃した、人類史上最大級の偉業だったことを、私は、世界で初めて告げた。
当時の朝鮮半島が、何故、世界最貧国の一つだったのか、その事を調べていて、気が付いたことでもある。
世界最貧国の一つで、人類史上最悪の一つの身分制度が在った朝鮮半島の人間が、当時の世界情勢の中で、日本との合併を選択した時、
日本はアジアで唯一、西洋列強と並ぶ近代国家だった。
猛烈な数の移民が押し寄せたのである。
有史以来、平和の中に居て、和を以て貴しとする国民だった日本は、当初、何の手も打たなかった。
だが、あまりの数が殺到して、これでは各地の港湾がマヒしてしまう事態となって初めて、日本国は、受け入れ場所を、長崎県の大村半島としたのである。
米国への移民を自由の女神の場所で受け入れていたのと同様だと思えば良い。
だから、戦後、朝鮮半島に帰らず、日本で暮らすことを選択した在日韓国人の人たちの多くの戸籍には、長崎県大村半島に上陸と記載されているのである。
井上も大江も、こんなことも知らないのだ。井上については、東北人だったから、岩手と関係があったのではないかという思いが浮かんだ。
初めて井上ひさしをウィキペディアで検索してみたら、全く、私の予感通りだった。
私の予感は、≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか …『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)
彼らが知らしめてくれた朝日新聞の実態が頭にあったからである。
前文略、黒字強調は私。
この前後から、社内で再び左翼が跳梁跋扈し始めるわけです。現実に、30年代の初めから、紙面がひどく左傾化していった。とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を作っていました。のちの北朝鮮報道で有名な岩垂弘記者たちがいたころです。
稲垣 社会党の岩垂寿喜男元衆議院議員の弟かな。
本郷 「長野の秀才兄弟」なんて言われていたが、彼の報道は、北朝鮮べったりだった。
後略
井上ひさしが、この朝日新聞岩手県版の購読者であったことは間違いがないだろう。
井上ひさし(ウィキペディアから)
前文略
1934年(昭和9年)11月17日、井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説「H丸傳奇」が「サンデー毎日」第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、「H丸傳奇」の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する。5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症と吃音症になる。
中略。
1950年(昭和25年)、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学。在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。東北大学と東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず、孤児院の神父の推薦で1953年(昭和28年)、上智大学外文学部ドイツ文学科に入学し、代々木上原のラサール修道院から通う。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し、東北大学医学部と岩手医科大学を受験して失敗。1956年(昭和31年)、上智大学外国語学部フランス語科に復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした。
後略
井上ひさしが、とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を作っていました。のちの北朝鮮報道で有名な岩垂弘記者たちがいたころです。…彼の報道は、北朝鮮べったりだった。…この朝日新聞岩手県版の愛読者であったことは間違いがない。
大江もまた、同様なのだろう。何故なら、朝日や毎日を購読していては分からない事なのだが、月刊誌の論文には、あちこちに、朝日新聞が、かつて、北朝鮮を、桃源郷であるとして賞賛していた時期、大江もまた、北朝鮮賞賛者の筆頭の一人だったと、当時の事情に精通している論者たちが知らせてくれているからである。
いずれにしても、大江や井上は、伊藤博文たちの足元にも及ばない小者に過ぎないと言う事を、その対談記事は証明していたのである。
だが私のブログからは直ちに抹消した。
何故なら、私は、そんな愚かな人間たちのお先棒を担ぐなどはまっぴらであるだけではなく、
文明のターンテーブル、とは、そういう小者たちとは、正反対の、人類の真実だからである。