僕が住んでいた小さな町には、古びたアーケードの商店街があった。その特徴であるアーケードのために、昼でも常にいくばくかの影に覆われ、そのことが商店街の寿命のようなものを早めているかのように見えた。それは日陰に置かれた観葉植物のゆるやかな消耗のように、あるいはいつ再発するかわからない病の潜伏のように、時間が止まったような古びた商店街の中に静かに染み込んでいた。
その町に暮らしはじめたばかりの頃、僕はよくその商店街に通っていた。新しい町に早く慣れようとしていたからだし、大きな書店と小さいけれどそれなりに品揃えの豊富なCDショップがあったからでもある。僕はまだ若かったので、洋服をその商店街にある店で買おうとは思わなかった。ただ、商店街には昔から常連客に愛された喫茶店や、老舗の和菓子屋なんかもあった。地元の友人たちと話していると、子供の頃からの(正確に言うと親の代からの)いきつけの店もいくつかあった。
それでも、そのアーケード商店街は、ゆっくりと沈みつつある船のようなものだった。大きな船で、下のほうで水が漏れ始めているのに、その巨大さゆえに甲板にいる人たちは誰も気づかない。手遅れになるまで気がつかずに、優雅にパーティーのようなものに興じている。そんなイメージがあった。かつては栄えた場所。たくさんの人たちの思惑や感情が交差したはずの場所。いまでは荒野の大地のように、ざわめきをも裂け目の中に吸い込んでしまっているみたいだ。
数年ぶりにその小さな町を訪れたときに、僕はいくつかの変化を見ることになった。
予想されたことではあったけれど、それは末期の病魔のように思いがけない速度で進行していたシャッター通り化であり、地元の店ばかりでなく、チェーン店のいくつかさえも撤退し、場合によっては更地となっている姿だった。売地という文字の書かれた立て看板が斜めに傾きながらも、いつの間にか勝手に住み着いた野生の動物のように自分の縄張りを主張している。シャッターに描かれた前衛アーティストを気取ったいたずら描きが、消されることもなく残り続けている。そこに描かれた角ばった文字は、預言者の宣託のように不思議な力強さを有している。洋品店の軒先のワゴンにうずたかく積まれたTシャツは、その前を通り過ぎていく中学生が小学校に入学する頃から同じ場所にあるかのようにそこにある。
かつては賑わいを見せただろう通りが、歩いているだけで町の衰退を実感させるダイジェストのようなものとなっている。途中でこれ以上歩くことは辛いと思えてしまう。迷子になってしまった旅行者のように、困り果て途方にくれてしまう。いったいどこで道を間違ってしまったのだろう。そんなふうに自問自答する。けれども答えは出ない。もしかしたら持っていた地図が異なる町のものだったかもしれない。よくわからない。ただ、変化への対応のようなものが遅れてしまっていることだけは確かなことだった。それは太古の恐竜たちのように、あるいはすでに絶滅してしまったいくつもの動植物たちと同じように、滅びへの道をゆっくりと進んでいるように見える。
もちろん、衰退しつつあるものの中にも希望はたくさんあり、どんな物事にもよい面とそうではない面があるのだということを思う。けれども頭に浮かぶのは、「強くて賢いものが残るのではなく、変化に適合したものだけが長く遠く歩むのだ」という言葉だったりする。
変化に対応すること。
それが必ずしもよいことばかりではないのだということはわかる。ただ、変化に対応しなければ、少しずつ進む砂漠化のように、多くの物事が砂に埋もれてしまう。いろいろな意味の砂に、いろいろな意味の時間のようなものに。
いまでもときどき、あのアーケードの商店街のことを思い浮かべる。どうしてか、すっかり忘れてしまった頃に、ふいに思い浮かぶのだ。
冴え冴えとした夜の、遠い月光に照らされた商店街を夢想する。いくつものシャッターは、月の光に照らされて冷たく輝いていることだろう。
その光景は随分と物悲しく、けれども近しいもののように思える。
―――――――――
お知らせ
今日は5時台の電車で出勤しました。最近はちょっと働き者な感じです。