共感という幻想:「解釈」という名の無意識の願望

2006-07-22 00:48:03 | 抽象的話題
「共感など幻想である」とは、いかにもペシミスティックな考え方のように思われるかもしれない。しかしむしろ、そういった印象を抱く人のうち、一体どれだけの人が自分のそう思う根拠(すなわち思考の前提)を疑ってかかったことがあるのかと疑問に思う。


自らの生や世界には何かしらの意味があると思いたい、という傾向と同じで、人と共感できるというの考え方もまた、(根拠に基づかない)願望に過ぎないように思える。というのも、何度も述べているとおり、そもそも人間とは自分自身を把握することすら困難な生き物であって(※)、その上「血液型判断」などといった形で自分を縛ろうとするからだ。そこに存在するのは「解釈」という名の願望なのであって、「事実」ではないのである。まずそのことに気が付く必要がある。


その次に重要なのは、「共感など幻想である」というのが終りの地ではなく始まりの場所である、と考えることだ。つまり、共感が幻想であることを盾に「所詮人はわかりあえない」などと諦めるのではなく(もっとも、そのことが諦めに繋がる原因には、多くの場合根拠無縁な期待とそれが裏切られたことによって生じる失望が関係している)、その限界を心に留めつつ、それでもなお人と向き合っていく姿勢を得るために、「共感など幻想である」という意識的な形での(それまで無意識に抱えていた)願望の破壊が必要だと思うのである。


※例えばかぜで辛い時などに、どこがどのように悪いのか自分で正確に把握したり他人に説明することができるだろうか?おそらくほとんど不可能だろう。にもかかわらず、直接感じることのできない他人の痛みに「共感」することなどありえるのか、私には非常に疑問である。


…そもそも「人の繋がり」に関して言えば、人は嫌というほど繋がっている生き物であり、おそらくよほどの未開の地にでも行かない限りは人との繋がりを断つことなどできない。
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