2023-11-15 13:42:53

2023-11-15 13:42:53 | 音楽関係

 

 

「何のために生きるのか」なんてあれこれ考え込んだところで、虚しさの前に立ち尽くすか、勝手に独善的ルールを設定して納得するだけなんだよなあ。だって、生きる意味なんて(わから)ないんだから。

 

例えば「生産性」とか「合理性」なんてものを軸に据えて探求し続けるなら、バグだらけの人間はAIに置き替えたらええねんて話だし、そもそも個人はおろか、人類にも地球にも存在し「なければならない」理由なんてものはない。

 

言い換えると、それらは「たまさかここに在る」だけで、そこに理由付けをせずにはいられんのは、不安と興味で頭でっかちな生を余儀なくされた人間のサガってとこですかね(まあハラリ先生も言ってる「妄想力」ってヤツですかねw)。

 

こんな話をすると、投げやりで悲観的な態度に思われるかもしれないけど、それは物事の一面しか見てないんじゃないか?つまり、それらをいちいち掘り下げることに時間をかけてる暇があったら、「小難しいこと考えても答えなんか出ねーんだし、もっとおもろく生きれるにはどうしたらいいか考えよーぜ」と発想してみたり、「目の前にいる他者に何を返せるか?豊かな関係性が築けるか?」といったベクトルで行動することにリソースを割いた方がよくね?て話。それを抽象的に表現したら、「偶然性や偶発性、偶有性といったものを、畏れるのではなく愉しむ態度を身に着ける」ってことなんだけど、簡単に言えば「解放」の原点になるんじゃないかってこと。

 

まあ社会が大きくなり過ぎちまった今、それが破綻しないよう(残酷ではない仕方で)運営する方法、つまり共生の作法を模索・改善してもいかざるをえない状況ではあるけれど(例としては先日書いた『男性の性暴力被害』の話「分断と孤独の拡大」の記事)、そういうマインドをさっきの「解放」的発想と並行して持ち続けることが重要なんじゃないかな・・・てなことを今回引用した歌を聞いて爆笑しながら思いましたマル。


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