自覚することの大切さ

2005-12-17 19:33:10 | 抽象的話題
今までのレビューなどを見て、「そこまで深く考える必要はないのでは?」と思った人がいるかもしれない。あるいは、「言語中心的解釈」において人が思考の混沌に絶えられず言語化・秩序化を図るという内容を見て、そんなことはない、そこまで難しく考えることもない、と思った人もいるかもしれない。

しかしこの記事で出した例から、あらゆる人が意味を渇望しながら生きているということを実感してもらえたのではないかと思う。隣人の行動などのレベルなら、まだ生活上の必要性に基づいたものと説明することも出来る。しかし例えば、陰謀史観→オカルト→ゴシップとなっていくにつれて生活との結びつきは弱まっていく。それでも人はあらゆる想像力を駆使して様々な意味を見出そうとするのだ。

その行動自体を否定するつもりはない。しかし、そういった行動のあり方に対しあまりに無自覚であるなら害悪もしかならないだろう。というのもその場合、「かくあれかし」という願望と事象の論理的分析が未分化のままになってしまうからだ。結果として、事象の解釈は誤った方向へ進んでいくことになる。その例として、以前私がマルクス主義史観に基づいて、歴史事象がそれに適合するよう解釈されていったことを指摘した記事(「研究の限界に対する自覚の必要性」)を想起してもらいたい。またそれは、物語の批評において、展開的・演出的必然性よりも自分の望んだ結果に終わったか終わらなかったかを(強引に)合理的判断基準とする類のものが跋扈することにも繋がる。

自覚することを経て、ようやく感想と批評を分けながら(しかし同時に)考える契機が生まれると思う。そしてまた、意図的に区分したそれぞれをより深く追求していける可能性も生まれてくるのではないだろうか。
 
※レビューで言えば、エロに対してはエロを基準とし、複雑なシナリオならそれを軸に、また演技には演技で評価するのが妥当ということになる。だから例えば否定する場合、(ゲームシステム・主題といった)枠組みそのものがアウトなのか、(ビジュアルとかが)感覚的にダメなのか、理論的にダメ(必然性の欠如など。「腐り姫」の批評記事を参照)なのか提示するよう心がける。これは、感覚的なものと理論的なものの区分に自覚的でないとやれない作業だ。
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