元々フラグメントは、いわゆるガラケーの古い携帯でブログの覚書(というか短いメモ)を作っていたのをいくつかまとめてそのまま記事として掲載したものである。しかし現在、ブログの下書き状態の記事で腐ったままになっているあれやこれやが結構あるので、この機会にリリースしておきたいと思う。どうせこういう話を書くことになる場合には、草稿に付け足すのではなくて一から書き上げる場合がほとんどだからね。
以下、若干の補足。<無害なモノになりたくて>は一時期集中的に書いていたノイズ排除の記事の一環。これはちょうどお笑い芸人ヒロシに関する記事を読んだので、それについて書く前に載せてみた。
<君が望む永遠>は斎藤環の「キャラ」と「キャラクター」の違いに関する本に刺激を受けて書こうとしたもの。鳴海孝之という主人公のわかりづらさと反発の一要因は、サブキャラシナリオの振る舞いは「キャラ」的であり(ゲーム的と言ってもいい)交換可能/反復可能なものである一方、メインシナリオの振る舞いが「キャラクター」的である(小説的と言ってもいい)こと、すなわち交換不可能性/反復不可能性に立脚している点にも大きな要因がある、という話。ここは製作者側の描き方の問題として指摘することができるだろう(というか、反発する人たちはなぜこういう視点で考えたり書いたりせず、18禁エロゲーをやっている=いい大人が「ヘタレ」「ヘタレ」と馬鹿の一つ覚えみたいに連呼しているのかが不思議、という話にも繋がるのだが)
最後の<「空気」社会の限界>は「嘲笑の淵源」と社会に関する記述の橋渡しであるとともに、なぜ私の人との対話内容とブログ内容が一致しないのか(まあ「合目的的」という観点があれば、一致しないのが当たり前なんだが)に関する説明でもある。これは先日書いた啓蒙への無関心ということと、加えて「この世界の片隅に」のレビューにも関係してくるので掲載した次第。
あとはその気になればスゲー色々リンク張れるが疲れるんで各々の意欲に任せた(`・ω・´)ゞと投げうっときますw
<無害なモノになりたくて>
鞠也、日常、らきすた、あずまんが、空気系
「萌え道」。抜けてる方が萌える(カワイイ)
キャラ化でリスクヘッジをする
「臨死!!江古田ちゃん」。「猛禽」一見すると「ヒガミ」じゃんと思うかもしれんが、それ以上の問題をはらむ。
嫌われる要素なし→それの何が悪いの?
コンフリクトは起こりうるものだ。いかに調整するか。その希求が病的になれば調和と地雷。「ねとすた」→殴ろうが蹴ろうがシーンとしてる。
おそらく、承認不足により、どうやって踏み出していいかわからない。「傷つきたくないし傷つけたくない」
「暗い」より「明るい」、「ダラダラ」より「キビキビ」。
プラスのものを組み合わせたら悪いものになるハズがない。特に何が善きことかわからない時代にそういう志向は強まるのは理解できる。
ニュータウン的なもの。ノイズ排除の病理。無菌室。
「女装子とヘイティング」
<君が望む永遠>
キャラとキャラクターの混在。
<「空気」社会の限界>
先日キム・ギドクの話を書き、
私自身も頷けるところがあるからだ。
年末遊戯
そこでは忠臣蔵
話しても皮肉や嘲笑と受け取られる。
そういう人たちは、そのような反応こそが嘲笑モノだということに気づいているのだろうか?
ちなみに私はあまりに通じないので話さなくなった。
もちろん、理解しようとしない人間に対して首根っこをつかまえて聞かせることもできるが、
そういう骨折りは10年以上前にやめたしね。
構造に目を向けられない盲目さ。「ノリ」だけの社会。
震災に関しては、「精神主義という名の病」
これを起点にしていくつかの記事を書いていくつもり。
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