ひぐらしからの興味の広げ方

2006-01-05 00:09:31 | ゲームよろず
ひぐらしは様々な話が出てくる。それに関連して色々と興味を持つ人もいるだろう。真面目な話をするなら、民間信仰、ドメスティックバイオレンス、住民運動、精神医学などなど。このどれもなかなか興味深い題材である。

ここでは、ゲームに範囲を搾ってひぐらしと関連の深い(と思われる)ゲームを紹介していこうと思う。なお、ほとんどエロゲーです。そのへんはあしからず。

というかぶっちゃけると、Leaf「痕」Top cat「果てしなく青いこの空の下で…」(一般ゲーム版「どこまでも青く」もある)、Liar-soft「腐り姫」の三つでひぐらしの作品的背景はほとんど押さえれる。特に「果てしなく青い~」をやれば7割カバーできると言ってもいい。田舎、伝奇的内容、主人公達の年齢設定、さびれた学校、双子、ヤマノカミ、おどろおどろしい儀式など、プロットとしてはひぐらしと共通する部分がかなりある。他の二者は部分的なプロットを持ってきた感じ。例えば「痕」は鬼、刑事。「腐り姫」は…ネタバレになるから書けませんwまあ皆殺しまでやった人はひぐらし世界の根幹に関わること、て言えばわかると思うけど。ちなみに、どれも傑作です。

また逆に、上の三作のどれか一つでも面白いと思った人にはひぐらしをオススメしたい。時間はそれなりに食うが絶対損はしないと思う。
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10 コメント

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すみません! お尋ねしたいことがあります。 (ceinture)
2006-01-05 00:59:57
二編収録時の鬼編・綿編のFredericaの詩の記事を拝見いたしました。

そこで、前々から疑問だったことが改めて噴出したのですが、

発表時の綿編では、前原母が圭一に図書館に返却してくるように渡す推理小説は、

二編収録時の綿編の時点ですでに「6冊」なのでしょうか??



制作日記では、綿編の発表のあとの2003.1.3の日付で「全6編」と固まりつつあります、

といったことがはじめて言及されているのですが、

私はこれまで鬼編・綿編の時点で本当に6編もの数に及ぶ構想があったのかどうか、

もしかしたら祟編構想期以後、多少変化したのではないか、

という関心があったのです。

おそらく、(別に深い意味はないにせよ)この前原母が返却させるように渡した推理小説の冊数というのは、

ひぐらしの作品数の暗示でもあったように思います。

(よほどメタフィクション的な展開でもしないかぎりは、別に意味はないと思いますが。)



二編収録のCD-Rでは、まだ「3冊」とか、別の冊数だったのでは…?

というふうに思うわけです。

どうなのでしょうか??



綿編と目編というのはほぼ同じ筋をもとにしている以上、

初期二編とそれ以後との切断が見えにくくなっているわけですが、

鬼編の多くの設定は大きく変更されたのではないか、

それによってどうしようもなく回収不能になってしまったところがあり、

罪編のレナがやや別人の側面ができてしまったのではないか、

という考えがあるのです。

おそらく、祟編の直前になって全体構想をもう一度組みなおしたのではないか。



ある意味で、初期構想におけるひぐらしというのは、

解決編の構想もありませんでしたし、それゆえの鬼編の作り方というのもあったような気がするのです。

いわば、鬼編付近でのひぐらし構想を想像しながら、イフのひぐらしについて

ついつい思いを凝らしてしまうのです……。



たとえば、公務員や公共機関への踏み込み方というのは、

鬼・綿編と比べて、祟編ではさらに変わってきているようにも見える。

公式掲示板でも書いたのですが(http://rena07.com/Cgi/cbbs/micbbs.cgi?mode=al2&namber=34993&page=100&rev=0&no=0)、

今回の皆編前半部の作り上げ方というのは、祟編の初心に戻って作ったように思えるんですよ。

しかし、鬼編・綿編と、その祟編で盛り込まれたテーマというのは、微妙にズレがある部分もあったのではないか? と。

なんというか、子供・学校内空間と親・公共機関との間に非常に溝があるような気がする。

祟編のテーマの回収としては、今回の前半部は収斂したものにはなっているのですが、

鬼編・綿編の手触りはなんだかちょっと違っている気がします。



Frederica詩の改訂があったという分岐点もこの時期ですし、

「綿編は本当に6編構成を念頭に置いていた時期の執筆だったのか?」と思うのです。
返信する
お答えします (ボゲードン)
2006-01-05 14:19:25
はじめまして。まず、問題の推理小説の冊数は同じ「6冊」でした。



>鬼編の多くの設定は大きく変更されたのでは>ないか、それによってどうしようもなく回収>不能になってしまったところがあり、罪編の>レナがやや別人の側面ができてしまったので>はないか、という考えがあるのです。



そういう部分はかなりあると思いますよ。鬼隠し編では詩音が「いなかった」というのは有名な話ですしね。その意味ではすでに鬼→綿編の時点で大きな転換があったわけで、これは鬼編の内容を受けて綿編が「魅音編」という方向で描かれたことにも表れています。



>おそらく、祟編の直前になって全体構想をも>う一度組みなおしたのではないか。



おそらくその通りだと思います。祟編の真相こそがひぐらしを巡る事件の根底にあることから、その雰囲気に合わせて全体の見せ方・雰囲気を変えていったのだと思います。鬼編では大災害が起こってない方が自然に感じられる記述も、大災害という要素が共通のモノとして構想されていなかったことを感じさせます。その証拠として、元綿編でのシナリオ紹介文を掲載します。ご参照ください。



>しかし、鬼編・綿編と、その祟編で盛り込ま>れたテーマというのは、微妙にズレがある部>分もあったのではないか? と。なんという>か、子供・学校内空間と親・公共機関との間>に非常に溝があるような気がする



その通りだと思います。これについて祟編発表時点の考え方に戻れば、真相との兼ね合いという側面があるでしょうね。沙都子を巡るやり取りは、プレイヤーの視点を広げる一種の「ヒント」だったのでは?というのが私の考えです。ネタバレ回避のため婉曲的な書き方でわかりにくいと思いますが、要は真相に合わせて見せ方を変えた、と推測しているわけです。蛇足ですが、子供中心的な視点というのは、本文で挙げた「果てしなく青い…」と共通しています。



ひぐらしの製作過程という意味では不満の残る回答かもしれませんが、とりあえずこのように考えています。
返信する
ご返答ありがとうございます~。 (ceinture)
2006-01-05 17:52:20
 ご挨拶遅れて申し訳ありません。はじめましてですね~。返答ありがとうございます。



 ああ、綿編の発表時ですでに「6冊」でしたか。

 ということは、変更があったとしても、1.鬼編執筆中or後の続編構想~2.綿編の基本構想のまとまり~3.執筆~4.シナリオ完成 のいすれかの時期に6編構想がかたちになっていたんでしょうね。とりあえず、私の考えでは3と4の間あたりのころじゃないかなぁ、というぐらいの見立てを持っています。



 さらに言うと、綿編と目編とで、詩音と魅音の仲の良さが多少変わってはいるんですよ。綿編時点では、もうちょっと仲が悪かったようにも話を作れるようになってもいますからね。

 また、詩音を作ったことで、TIPS「元気ないね」の魅音が回収しにくくなった、という(2006.1.5の記事)のはその通りだと思います。

たとえ、注射器=マジックが鬼編執筆当時の真相だったとしても、魅音は立場上・性格上もうちょっと灰色の複雑な人物だった、という可能性も考えられますからね。

 まあ、鬼編のFrederica詩にも顕著に見えるように、陰湿なトーンというのはそこかしこに散らばっているように見えます。それが単に「そういうのってリアルだなぁ」という感覚で作られたのかもしれないし、もっと複雑に作品を構成できたのかもしれないし……と、興味深いところだと思っています。

 おそらく、A.鬼編時~B.綿編構想まとまり~C.6編構想と祟編構想まとまり~D.暇編&解答編構想に着手 という段階で複数の流れがそれぞれ修正されているんじゃないかなぁ、と。おそらく、鬼編のFrederica詩というのは、Aの時期のキーとなっているイメージだったんでしょう。すごく暗いw ただし、圭一の立場が能天気すれすれにどんどん前向き・明るく・熱く・主導的になったのは、たぶんDの時期であって、B~Cの時期はまだそこまで決定していないのかな、と思います。



 たとえば、子供・学校内空間と親・公共機関との間の溝という点では、(大幅な改稿が難しい目編の後の作品に当たる)罪編の早々にして、圭一と両親の関係の溝を埋めようという処理をしているようにも見えますからね。

 ただし、溝の埋め合わせが、祟編と罪編~皆編とで一直線につながっているかというと、なかなか難しいところでもあるんですよ。たとえば、レナとリナの(今となっては)意味不明な名前の符号や、属性の符号(「お水」のリナと竜宮伝説を強く匂わせるレナとか)があったり、祟編の圭一vs鉄平/沙都子というのは、DVや虐待といった要素を除けば、「家事をしてくれる沙都子」の奪い合いといった構図でもあるからです。また、この構図は実は罪編のレナvsリナ/レナ父の関係にも似ていて、美人局や預金狙いといった要素を除くと、父親の奪い合いでもあります。一種、圭一・レナの分身的なペアとして、鉄平・リナが配置されたという残響を祟編に見出すことはできなくはないと思ってます。(ただし、これを展開したら面白くなるかは難しいんですけどね)

 親・公共機関との溝はあるんですが、一応その溝をつなごうとして、失敗するのが祟編であり、その後、修復が罪編以後急速に始まる、という移行があるのでしょうね。
返信する
あ… (ceinture)
2006-01-05 20:02:50
あああ…すみません。ネタバレ対象の内容を書き込んでしまいましたね。気付くのが遅れました…。

私のコメント文章の削除や修正は、ボゲードンさんのご随意になさって結構ですので、ご不快に思われるようでしたら、お願いします。
返信する
作者の演出意図は… (ボゲードン)
2006-01-05 20:08:10
「6編構想」に関しては、私が古くからのプレイヤーでないため空気的に掴めない部分がありますが、何かで「解答編を作る予定はなかった」というのを見た記憶があるんですよね。ただ、典拠を示せないので信用度はゼロですが(苦笑)



>さらに言うと、綿編と目編とで、詩音と魅音の仲の良さが多少変わってはいるんですよ。



そうですね。これについては灰色だった(=はっきり決まってなかった)ものをプレイヤーの反応を見ながら白に近くしていったのだと思います。目編では、二人のやり取りではなく詩音のモノローグによって距離感を出してますよね。何というか直接的な感情のぶつけ合いではなく内面で感じる溝という形でうまく暗示的に黒い部分を出した印象です(悟史関連では別ですが)。



◎「陰湿なトーン」「子供達や親との溝」



そもそも鬼編、綿編は閉塞感が最大のポイントというのが溝の原因ではないでしょうか。つまり、「誰も信用できない」と。そういう方向性で描く場合、必然的に溝が作られざるをえません。しかも「親」という立場は、村ぐるみの可能性を考えたとき全く信用できない存在となります。ですから、両者の溝は構図的なものから作られたと言うより、演出的必然性に基づいていたのではないでしょうか。そういう目で見れば、祟編の公共機関との関係は、より深い閉塞感を演出するためのスパイスだったという気がします。



ちょっと錯綜しているように感じられるかもしれませんが、要するに先を見越して祟編から溝を演出したと言うよりは、両者の溝がそもそもひぐらしの根底にあったというのが私の推測です。村全体が信用できないというのは、当然その公共機関も信用できないということですから(これについて、鬼編ラストの「駐在」が推理掲示板で疑惑の対象にもなりました)。一言で言うと、「溝が作る閉塞感の方に主眼が置かれていたのではないか」ということです。



◎属性などの符号



これは三億円事件的な「ばらまき」が目的だと思っています。全部が全部とは言いませんが、勝手に深読みすることを狙ってブチ込んだのではないか、と。実際そういうのに踊らされた推理記事がかなり多くありましたからね。様々な事象を出してきて同じように時間をかけさるのは、本質から遠ざかる(=枝葉に感心がいく)という意味で立派なミスリードだと思いますので。ですから、深読みしたら負けと言えるかもしれませんね(笑)もっとも、そんな中で出てきた「みよ」=「御世」(神の顕在)説は笑えるかまだわかりませんが。



◎溝



うーーん、どうでしょう。そういう見方もありますが、竜騎士さんの演出意図がどうだったかが重要なのでつい慎重になりますね…皆編までみる限り「仲間」という基軸ではないでしょうか(レナVSリナには当てはまりませんが)?まあ圭一が沙都子の「にーにー」として振舞うようになるため解釈の難しいところですが。



だいたいこんなところです。
返信する
無問題かと。 (ボゲードン)
2006-01-05 20:24:13
内容を見る限り大丈夫だと思いますよ。むしろ、こういう本質にかすってる内容を見てひぐらしに食指の動く人が一人でも多く出てきてくれたら、なんて思ってますw
返信する
そうですよね… (ceinture)
2006-01-05 21:12:27
> 「6編構想」に関しては、私が古くからのプレイヤーでないため空気的に掴めない部分がありますが、何かで「解答編を作る予定はなかった」というのを見た記憶があるんですよね。ただ、典拠を示せないので信用度はゼロですが(苦笑)



 そうなんですよね。「解決編が無い」という言い方自体はどこにも見当たらないんですよね。ただし、鬼編の発表前後の制作日記では、まだ「圭一編(旧レナ編甲)・魅音編・沙都子編」(沙都子編はインタヴューによると旧悟史編でもあった)という言い方をしていて、綿編の発表前後では「前作は一人だけ正解者がいましたが、今作ではどうなるでしょうか」といった言葉が出ている。



 二編の時点でおそらく、作者の方に出題感覚はあったと思うのですが、3編構想として沙都子編=解決編という担当になっていたのかどうかはよくわからないところもある。で、まあ推測として3編構想のひぐらしというのは、ひょっとしたら解決編無しだったのかもしれないな、ぐらいですね。「解決編の構想もありませんでした」とまで言っちゃうのは言い過ぎでした。



 ただ、鬼編の作り方って、解決編を念頭に置いていたのかそうでないのか、見えずづらくて…。このへん、面白いところではあります。



> ◎「陰湿なトーン」「子供達や親との溝」

> そもそも鬼編、綿編は閉塞感が最大のポイントというのが溝の原因ではないでしょうか。つまり、「誰も信用できない」と。



> 両者の溝は構図的なものから作られたと言うより、演出的必然性に基づいていたのではないでしょうか。



> 村全体が信用できないというのは、当然その公共機関も信用できないということですから(これについて、鬼編ラストの「駐在」が推理掲示板で疑惑の対象にもなりました)。一言で言うと、「溝が作る閉塞感の方に主眼が置かれていたのではないか」ということです。



> ◎属性などの符号

> これは三億円事件的な「ばらまき」が目的だと思っています。全部が全部とは言いませんが、勝手に深読みすることを狙ってブチ込んだのではないか、と。



 そうなんですよね~。閉塞感による溝や陰湿なトーン→深読みと推理への促進効果や不信感・演出的必然性 という仕込みも強くあるので、一概に恣意的な読解できないところがあります。まあ、上の私の見解は、二次創作的な妄想の一つぐらいのものなのでしょう。



> 要するに先を見越して祟編から溝を演出したと言うよりは、両者の溝がそもそもひぐらしの根底にあったというのが私の推測です。



 ああ、いやいや、鬼編・綿編の時点で溝は色濃いのだと思うんですよ。鬼編の圭一は言わば大石に利用されるだけでもあるのだし、綿編の圭一・レナもまたそうですし、撲殺や裏切りの舞台は家を中心にしていたりするわけですから(梨花・沙都子の失踪に対しても圭一と両親にはどことなく距離がある)。

 ただ、積極的に・クラス単位で公的機関へアプローチをして、さらにそれが失敗するまでの過程を描く、という意味では祟編はより強く出ている、というぐらいのことです。



 しかし、確かに作者の演出意図というものを無視してしまうのは危うさが付きまとうだけに、断定しがたい微妙な問題ではありますね。しかも、作品自体が、作品の演出面と再読としての推理面という二種類が絡み合っているだけに難しく、ついつい私も恣意的な考察に流れ込んでしまったようです。
返信する
通時的な視点 (ボゲードン)
2006-01-07 15:20:35
返信遅れてすいません。



>3編構想として沙都子編=解決編という担当になっていたのかどうかはよくわからないところもある。で、まあ推測として3編構想のひぐらしというのは、ひょっとしたら解決編無しだったのかもしれないな、ぐらいですね



祟編が前二編の事件の根底にある要素

(圭一たちが怯えた「見えない何か」)をもとに書かれていることから、祟編で解答が提示される可能性はあったと思います。その意味では、祟編ラストの「テープ」は非常に暗示的な印象を受けますね。思うに、暇編が最初予定されていなかったことからすれば、赤坂の元になった「誰か」が「平成15年」において解答らしきものに辿りつくという形式が構想されていたのではないか?そう考えれば、テープの発見された時期が浮いているのも納得がいくような気がするのですが…

 

ここから想像をたくましくすると、祟編の文句「最短のシナリオ」は気になるフレーズです。というのも、言うほど短くないんですよね。暇編ならともかく、他と同じように二週間近くかかる祟編がなぜこのように紹介されるのか?それと解答編の無かったという仮定を併せて考えたら、初期構想の祟編は「部活などがない短い本編→カタストロフ→平成15年における「誰か」による解答の提示」という形式を取っていた可能性が推測されるのです。最後に解答を入れるために本編の尺が他編より縮められていた…その名残が「最短のシナリオ」というフレーズではないか、と。



また元綿編の詩がガスにちなんだものである以上、カタストロフ自体は免れえないものだったでしょう(つまり解決編としてのハッピーエンドはない)。純粋な「解答」編という位置づけだったのだろうと推測されます。



> ただ、積極的に・クラス単位で公的機関へアプローチをして、さらにそれが失敗するまでの過程を描く、という意味では祟編はより強く出ている、というぐらいのことです。



なるほど。それなら同感です。



>しかし、確かに作者の演出意図というものを無視してしまうのは危うさが付きまとうだけに、断定しがたい微妙な問題ではありますね。しかも、作品自体が、作品の演出面と再読としての推理面という二種類が絡み合っているだけに難しく



その通りだと思います。しかも厄介なことに、ひぐらしは一編一編の製作期間の長さや反響の内容のために変容していっている、ということです。それはつまり、ある表現が当初の演出意図と違う意味づけをされてしまっている場合があるということです(鬼編の諸要素はその最たるもの)。ですから、もし深く分析しようとするなら、「その時点での演出の意味」という通時的な視点が必要となってきます。「後付け」という障害物まで相手にしなければならんとは、いやはや面倒くさいですねw



>ついつい私も恣意的な考察に流れ込んでしまったようです。



作者の意図は作者の意図。それを踏まえた上で私はこう読む。このような距離感があれば、例え恣意的でも全く無問題かと思いますよ(^0^)では、長くなりましたがこれにて。
返信する
う~ん。 (ceinture)
2006-01-09 13:01:30
 ひぐらしの推理物としてのアンフェアが批判されていたスレで、作者自身の書き込みが二度にわたってありました。それに次いで、推理物としての批判以外に、推理/物語の二分法以外に、こういう主題への取組みがあったと仮定することもできるのではないか(で、その上で不満である)、という文章を書いてきました。書いてしまった後ながら…ヤッチマッタ感が…。



 読み返してみると、スルー間違いなしのトンデモ文章になったように思えて、実に悩ましい気持ちに。う~~~ん。でも、公共機関・「環境」との関係という点で、皆編の全体があったのだとすると、まあ、ありえなくもない読解だとは思うのだけど…。作者の意図を超えている可能性満々…。

http://rena07.com/Cgi/cbbs/micbbs.cgi?mode=al2&namber=36616&page=140&rev=0&no=0

返信する
演出の題材と推理対象という二面性 (ボゲードン)
2006-01-09 20:16:44
記事のほう拝見しました。文面を見ている限り9割、いや10割近く賛成です。



公式HPやここでの書き込み(そしてそれへのレスポンス)を通して思ったのですが、演出的必然性や構図といったものをなおざりにした批判もまた少なからずあるように思うのです。ceintureさんの書き込みにあるように、赤坂の意味、そして断絶の収斂、繰り返す破局の必然性といった様々な伏線や演出が真相と絡んでいるわけですから。プレイ後に私がモヤモヤしてしまった(笑)のは、そういった評価すべき部分が同時に批判すべき部分でもあるという複雑な状況を整理できていなかったからだろうと思いますしね。



「作者の意図」ということに関しては、多分ceintureさんの書き込みでほとんどブレてないと思いますよ。



あと「陰謀論」についても同意ですね。これが真相だとわかった瞬間私は期待するの止めましたしwそういう類の話が往々にして安直であるというのもありますが、私に言わせればそもそも陰謀論の大半が「妄想」ですからね。じゃあその陰謀論書いてる作者もそれで喜んでる奴も「ヒナミザワ症候群」だよwみたいな(もしそういう認識まで計算してるんだとしたら凄いですけどね)。



まあ陰謀論の二重構造はよくできていると思います。病気で周りを疑い、実は大丈夫と思ったらもっとでかいのがwこれが罪編だったわけですが。



なんかまとまりの無い文章になりましたが、世間でひぐらしが正負両面をきちんと評価されることを期待しつつ失礼します。
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