なぜ銅の剣までしか売らないんですか?:自由意思、アーキテクチャー、共生の作法

2021-04-03 11:16:16 | 感想など
 
 
 
 
 
 
「なぜ銅の剣までしか売らないんですか?」の動画もいよいよ最終回。最初こそ、RPGあるあるへの風刺と思わせたその物語は、その実共生や自由意思、アーキテクチャーといった大きなテーマを扱うmythだと知って私は非常に感銘を受けた(あるいは斎藤幸平の『人新世の「資本論」』などを思い描くこともできる内容)。
 
 
ここで描かれていることは、必ずしも目新しくはない。いやむしろ「古くて新しい」という形容が最も適切ですらあろう。
 
 
しかし、逆に考えてみてほしい。「古くて新しい」というのは即ちそれだけ繰り返し取り上げられてきたことを指すが、ではどうして、それがたびたび主題となり続けてきたのか、と。その答えは、かかる人間描写や世界描写が本質の一端を、あるいは少なくとも我々が本質的だと感じることの一端を、描写しているからに違いない。
 
 
その意味において、何度でも繰り返すが、ここで描かれていることは「最終解」でも何でもない。むしろそれは、世界理解における始まりの場所、すなわち「基礎教養」レベルであり、逆に言うなら「この程度」の理解もせずに世界に希望を抱くのも世界に絶望するのも、等しく無知蒙昧でナイーブであるという点において幼児的であると言わざるをえないのである(もっと言えば、この作品を見てもなお勧善懲悪に平然とコミットするような人間は、もはや病膏肓に入っているので捨て置くべきだ、とも思う)。
 
 
さて、これ以上動画で述べられていることを私がくだくだしく述べるのは屋上屋を重ねるだけの行為に思える(墓に花が供えられている描写は、その人物が単にシステムのあり方を肯定しているわけではないことを暗示しているetc...)。それを承知で多少のコメントをするなら、例えばある人物が述べる「愚かな者ほど、複雑な問題の結論を性急に出そうとする。意見や考えを一旦保留する、ということができないのだ。」という言葉は、「SNSというまごうことなき公共空間」において、条件反射のように鳴き声を日々撒き散らす連中などを思い起こさずにはいられない。
 
 
あるいは、この世界から「ノイズさえも計算されたもの」として運営されるマトリックス的世界を連想することもできるし、そこでの「異文化交流」の姿は他者理解という文脈で、「ヘレネスーバルバロイ」という対立図式からコスモポリタニズムへと到った古代ギリシアからヘレニズムへの変化を思い出すことも可能だろう。
 
 
もしくは、ここで描かれている共生・制度設計・自由意思というテーマから、「BEASTARS」「ダンジョン飯」(あるいは九井諒子の短編)などの諸作品を思い描くこともできる(あるいはダークなテイストは強くなるが、「魔法少女まどか☆マギガ」なども関連する作品として取り上げることができよう)。
 
 
そのような実り多き題材を、これほどわかりやすい方法で表現してみせた手腕に、私は改めて賛辞を贈りたい。そして、一人でも多くの人間にこのような「基礎教養」が共有されることを願いつつ、ここで筆を置くこととしたいと思う。

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