認識論と宗教的帰属意識:儀礼と帰属意識の乖離

2023-02-01 12:25:25 | 宗教分析

マンハイムの認識論に絡めて、「共感」という病、人間性の数値化(世界を数で理解・体系化しようとする試み)などの記事を書いてきた。

 

ところでこのような認識論は、このブログで長らく扱ってきた宗教的帰属意識とも深く関わっていることは言うまでもない。「宗教的帰属意識」とは、ある宗教や宗派に属しているか否かという意識のことだが、日本という国は自身を無宗教と考える(=宗教的帰属意識を持たない)人間が過半を占めており、その数は実に8割に達する。

 

これに対し、「実は日本人は~教徒である」という主張を時折目にすることがある(数が多いわけではなく、また大学に属する研究者のものは管見の限り目にしたことがない)。そしてその根拠としては、宗教行為の実践を挙げていることが多い(この件は『近代仏教スタディーズ』なども用いつつ別の機会に書ければと思う)。

 

なるほど確かに、葬式はいまだ仏教式であることが多いし、初詣に行く人もそれなりにはいる。しかしそれでも、この解釈はかなり恣意的と言っていいだろう。というのも、仮にその基準を採用するなら、なぜ「キリスト教式の結婚式を挙げる人はキリスト教徒」にならないのだろうか?あるいは「モスクを訪れた人はイスラーム教徒になる」のだろうか?もう少し別の角度で考えてみると、例えば「仏教式の葬式に参列した外国人は仏教徒」なのだろうか?あるいはそれが無神論者(唯物論者)であるならばどうか?もしくは「初詣に参加した外国人は神道の氏子」か?


このように基準を一般化していくと、いかにもそれが危ういことに気付かされるだろう(というのもここでは、儀礼のイベント・慣習的側面や、あるいはそれへの参加に共同体の同調圧力が働いていることが等閑視されているからだ。ここでは、1952年の読売新聞社の調査で、自身が仏教を信仰すると答えた人の割合が54.4%なのに対し、「家の宗教」として仏教を挙げた人の割合は89.3%でその差は実に35%に上っていることを想起したい。ちなみに、戦後に行われたこういった定量的調査によって、時折見られる「『宗教』という言葉のカテゴリーが日本人の宗教意識を掬い上げるのに向かないから無宗教と答える人が多いのだ」といった主張はさして説得力がないこともわかる)。

 

結局のところ、そういう外的な根拠づけは、つまるところ(それ以外に誰しも納得しうるような普遍的基準が存在しないため)「檀家だから仏教徒」・「氏子だから神道の信仰者」といった話にならざるをえず、最終的に誰一人として根拠に採用したのを見たことがない、仏教教団や神社本庁の信徒数(合計すると2億!w)の公式見解と何ら変わらなくなる(=馬鹿げたものにしかならない)という寸法である。それは日本人の宗教的帰属意識(認識論)を考える上においては何の益もなく、せいぜい教団の公式見解を知ることができるだけだ(なお、日本人の宗教意識について調べていると、それに付随して様々な人々が日本宗教や日本をどのように見ているのか、というバイアス=脱亜入欧的オリエンタリズムも見えてきて興味深い。そこでは、一神教が支配的な欧米との比較はしばしばなされるが、どういうわけか多神教のインドなどは無視されているのである。しかも、そのような偏りに基づき日本特殊論を展開していることが多いので、この意識は相当根深いものだと思われる)。

 

以上要するに、儀礼の遂行によって外的に日本人を「~教徒だ」と定義づける行為は、宗教家や御用学者がアジテートやプロパガンダのために行うのでなければ、誠実な研究者のそれとして無効と言わざるをえない。

 

よってここで立てるべき問いのあり方は、

1.日本人は過半が無宗教を自認している(特定宗派・宗教に帰属意識を持たない)

2.にもかかわらず、宗教的行為はしばしば行われている

3.このように宗教的行為と宗教的帰属意識が乖離するような事態はどのようにして惹起したのか

というものであろう。

 

このような見地に立った上で、江戸時代の仏教システム化、明治政府が神道を「無宗教」と公式に設定したこと、あるいは戦後の都市化や高学歴化などが民衆の帰属意識にどのような影響を及ぼしていったのかを見ていくのが、無宗教が8割をも占める特徴を持つ日本人の宗教的帰属意識の背景を分析していく上で、スタートラインとして重要だと思う次第である。

 

以上。


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