最近、ブログを書く気力が減退している。
それと関係するのかはわからないが、小説を読んだりゲームをやったりしていてもどこか表面をなぞっているだけの気がするし、自分の過去の出来事やその当時の考え方を思い出そうとしても他人事のようにしか感じられない(例えば、割と近い大学時代の考え方さえ、言葉では理解できても精神性の理解は困難になってしまった)。
では、無気力という薄い膜の中に生きているのかと言うと、仕事などは今までで最高に充実した状態でやれているし、精神的にも満足している。むしろそれだけに、今まで輪郭の掴めていたものが茫洋とし始めたことに対し微かな違和感がつきまとう。
強く感情を揺さぶる作品に出会ってないのも大きいのだろうが、何より仕事中心に思考のベクトルが変化しつつあることで、昔は見えたものが見えなくなってきているのだろう(どんな傑作、「魂の唄」であろうとも、こちらにそれを受け入れる準備がなくては単なる画像や文字の羅列になるだけだ)。
どちらも持ち続けたいと願うのは欲張りすぎかもしれないが、そんな現状だからこそゆっくりできるGWは大切にしたいものだ。屋久島にも行けなくなりそうだしね。さてどう過ごしませうか…
それと関係するのかはわからないが、小説を読んだりゲームをやったりしていてもどこか表面をなぞっているだけの気がするし、自分の過去の出来事やその当時の考え方を思い出そうとしても他人事のようにしか感じられない(例えば、割と近い大学時代の考え方さえ、言葉では理解できても精神性の理解は困難になってしまった)。
では、無気力という薄い膜の中に生きているのかと言うと、仕事などは今までで最高に充実した状態でやれているし、精神的にも満足している。むしろそれだけに、今まで輪郭の掴めていたものが茫洋とし始めたことに対し微かな違和感がつきまとう。
強く感情を揺さぶる作品に出会ってないのも大きいのだろうが、何より仕事中心に思考のベクトルが変化しつつあることで、昔は見えたものが見えなくなってきているのだろう(どんな傑作、「魂の唄」であろうとも、こちらにそれを受け入れる準備がなくては単なる画像や文字の羅列になるだけだ)。
どちらも持ち続けたいと願うのは欲張りすぎかもしれないが、そんな現状だからこそゆっくりできるGWは大切にしたいものだ。屋久島にも行けなくなりそうだしね。さてどう過ごしませうか…
自分の経験からいうと、多くの作品に触れすぎているともう自分が何か表現をする必要がないなと無意識ながらに感じるように思います。
いろいろ飛ばしますけれど、とにかく、人間は適合していくものなんだと思います。