作品とは「自己の投影」である

2007-08-05 20:29:27 | レビュー系
作品とは、それそのものが社会状況を投影するのみならず、「感情移入」や「共感」という虚構を通して受け取り手の自我が投影される場でもある。まずはその事実を理解しないと、共感や感情移入が無意識の前提になってしまい、主人公の立場で考えるのではなく自分の側に勝手に引き寄せて、もっと言えば引き摺り下ろしてしか受け入れることができなくなる。


ではその前提(バイアス)に注意するとして、次にすべきことは何だろうか?作者の意図を中心に据えて表現の意味などを考えるのは非常に重要だが、なかなかに骨の折れる作業ですぐにはできないことも多い(特にその作品が生まれた社会状況などをよく知らない場合にはなおさらだ)。しかし少なくとも、自分がある作品に対して抱いた感想について、「そう感じるのはなぜか」「そのように感じる私とは何者なのか」と問いかけるのは容易にできる。例えば私の場合で言うと、PCゲームで傑作と思うものに共通する特徴を考えた結果、「情念」という要素を見出すことができたし、あるいは「涼宮ハルヒ」に反感を覚える理由を分析した結果、傍若無人な(女)キャラに苛立ちを覚えることがわかった。このように、作品への反応は単に作品への評価だけでなく自己の内面をも明らかにする契機となるのである。


そして感覚を追求していくと、それがいかに不確かなものか(限定性・恣意性)が見えてくる(特に前にも挙げたドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や夏目漱石の「こころ」などと深く付き合ってみればよくわかることだろう)。これは社会によって形作られた道徳や人間観の領域だが、その不確かさを認識すれば、次は視覚といったより自明な(はずの)感覚を疑う段階に行く。そうすると、エッシャーマグリットの絵が単なる悪戯っぽい仕掛けなどではなく、真摯な問いかけの結晶に見えてくるだろう(もしその段階を通過すること無しにそういう芸術を称賛している者は、天の邪鬼なのか権威主義に毒されているかのどちらかだと思われる)。


何もない状態で今の自分の立ち位置を知ることは難しい。それが数多くの「自明」によって成立しているからだ。しかしそれが自明でも何でもないことを、様々な作品群、そしてそれに対する反応が教えてくれる。私達には、社会状況どころか自己のあり方や自分の感覚でさえ全くのところ自明ではないのである。


さて、自己の感覚を疑う契機となる作品の一つとしては何度か取り上げた沙耶の唄があるが、次回はその「説明不足」の問題を述べることにしたい。
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