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「ベトナム観光公社」への批判から読む:戦争への生理的嫌悪

2005-11-15 23:23:32 | 本関係
「ベトナム観光公社」は筒井康隆が1967年に発表した作品である。内容をかいつまんで説明すると、戦争自体が観光化したベトナムへ色々な人が観光に訪れドタバタをやらかす、というような話なのだが、筒井氏本人によれば、これに対して「パロディ化していいものと悪いものがあるのではないか。戦争はパロディ化していいものではない。」といった批判が寄せられたという[批判した人の名前が今は思い出せないが…]。

しかしながら虚心に「ベトナム観光公社」を読めば、その主旨が戦争そのもののパロディではなく、戦争を娯楽化してしまうマスコミの恐ろしさと、それに乗っかる大衆の無知や浅ましさであることは明らかである[こういった表現の方向性は、同氏の「東海道戦争」「48億の妄想」などにも共通している]。要するに、「ベトナム観光公社」で表現されているのは「外部による戦争の娯楽化」なのであり、それゆえ戦争がパロディ化されているように見えたとしても、それは作品内において戦争を観光する人々の視点に負うところが大きいと言えるだろう。

そうだとすると、先に挙げた批判はどのように評価することができるだろうか。単に的外れなもの、あるいは人道主義的批判という見方もあるだろう。しかし私は、そこに戦争への生理的嫌悪が存在するように思えてならないのだ。つまり、戦争という深刻なものを軽々しく扱ってはならない、「真面目に」捉えなければならないといった思想(というか思い込み)が根底にあるのではなかろうか。

もちろん多少のフォローは必要である。この批判は戦後二十年ばかりの頃に、世界的にはベトナム戦争と冷戦、国内的には安保闘争といった空気の中で行われたもののだ。緊迫した空気に包まれていたことは容易に想像できるし、今の情勢からのみ評価するのは不公平な部分もある。

とはいえやはり、こういった批判は戦争というものの複雑さやプロセスから目を背けさせる効果しか持ち得ない気がする。戦争を恐れ多いものかのように位置づけ、実態を知ることよりも、恐怖感を増大したりさせたりすることに力点が行ってしまうのだ[なんだか日本社会の「宗教」への対応と似ている気も…]。

「反戦を叫ぶ人へ」でも書いたが、そういった思想・思考によって本当に戦争が防げるとは思えない。もういい加減に、無意識的呪縛からは自由になるべき段階だろう。そのように考えるならば、筒井氏の「ベトナム観光公社」などは、むしろ戦争に対する一つの透徹した視点を提供したという意味で、意義深い作品であると言えるだろう。
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