ひぐらし~メディアミックスで失ったもの~

2009-03-09 19:12:45 | ひぐらし
祭囃し編の覚書が終わってしばらくは、ひぐらしの記事を放置しようと思っていたが、崇殺し編で殺人の罪悪感が描かれない理由」など中々抜けられない状態が続いている。さて今回は、表題の通りひぐらしがメディアミックスにより失ってしまったものを論じていこうと思う。このように書くと、多くの人は内容面での批判を予想するかもしれないが、ここで扱うのはあくまで表現形式である。以下そのことを意識して読んでもらえればと思う。なお、注は最後にまとめてある。


最初期の「「ひぐらしのなく頃に」の移植について」を始めとしてすでに何度か触れているが、そもそも雛身沢症候群(以下「症候群」)に侵された状態での知覚は第三者視点だと成立しないため、ひぐらしでは主人公主観の形式を採用せざるをえないという事情がある。そのような演出上の制約を考えた時、そもそもひぐらしをアニメや漫画に移植すること自体が持つ問題が見えてくる(ドラマCDや小説はまた話が変わってくるが…それは最後の注で述べる)。


長編のアニメや漫画で延々と主人公主観が続く作品というのは私の知る限り存在しないが、もしこれが一般化できるなら、アニメや漫画で原作と同じ主人公主観を採用した場合、その異常性ゆえに違和感が喚起されあっさりと真相(の重要な一部)が看破されてしまう危険性が考えられる。こういう理由で、アニメや漫画という媒体は、真相を推理するという出題編の性質上不適切なのである(注1)。


いったん話をまとめよう。
アニメや漫画においては第三者視点が一般的だが、それは症候群の世界を描くのには不適切である。とはいえ、症候群の世界を再現するために原作と同じ主人公主観を採用した場合、前述のようなアニメや漫画における表現形式の特徴ゆえに、それが強く違和感を喚起し、早い段階で真相が看破されてしまうことが予測される。以上のことからすれば、そもそも症候群を表現するのに向かないアニメや漫画という媒体にメディアミックスを行うこと自体、大きな問題をはらんでいると結論できる。


とはいえ、これには反論も多いだろう。
症候群の知覚に主人公主観が不可避であるのはわかるとしても、作中でそれが延々と続く必要はないわけで、例えばアニメ版鬼隠し編ではレナや魅音が豹変するシーンにおいてアングルの変更が多用されている。また、真相の推理という批判についても、アニメ版の予告を用いて反論が可能である。

鬼隠し編第二話(in 第一話ED)************
信じられるの?目に見えていること。
信じられるの?息づくこと。
信じられるの?私のこと。
************************************

鬼隠し編第三話(in 第二話ED)************
あなたに見えるのは偽りの居場所。
そこに見えるのは虚ろな眼差し。
わたしに見えるのは繰り返す悲しみ。
************************************

このように、見えているものを疑わせるような言葉が繰り返されているわけだが、それはつまり早い段階で真相の一部、すなわち症候群というルールが見破られるのも想定の範囲内であることを意味している。とするなら、今までの話は製作者の演出意図を読めていない一方的な批判ではないか……とこういうわけである。


これに関しては二つの視点から反論を加えたい。
まず第三者視点から主人公主観へのアングル変更であるが、確かに工夫の跡が見られることを忘れてはならない。しかし、例えばレナの「嘘だっ!」は圭一とレナの双方が見えていないとはいっても、レナを下から見上げるようなアングルであり、明らかに圭一の視点ではない。鬼隠し編最終日に大石への呪いの言葉を吐く魅音などについても同じことが言える(魅音は圭一と反対側を見ているため、魅音の顔は見えるはずがない)。要するに、アングルの変更は「恐怖の演出」という側面が強く、症候群の知覚を誤りなく表現するために行われているわけではない、ということだ。注射器を完全に第三者視点(視聴者には圭一もレナも魅音も見えている)で描くといった致命的なミスを犯していることを考えても、やはり症候群の知覚の表現という点で大きな問題を抱えていることは否定できないのだ。


では、もう一つの視点とは何か?
先に述べたアニメや漫画と症候群の非親和性とは対照的に、サウンドノベルと症候群は非常に高い親和性を持っている。サウンドノベルと言えば、もはや「古典」と呼ぶべき「雫」や「痕」、ひぐらしと同じく同人の「月姫」、一部で有名な「さよならを教えて」(ネタバレレビューあり)などがあるが、それらは全て主人公主観となっている。要するに、サウンドノベルというものは主人公主観が一般的なため、それが連続したからといって違和感を抱く人はいない、ということだ。このような性質に加え、人間というものは自分の見えているものは正しいと認識しがち(注2)なので、サウンドノベル形式でかつ見えているものがおかしいという状況を作り上げれば、絶大な効果を上げることが可能である(その成果については、鬼隠し編における「正解率1%」を想起すれば十分だろう)。 


症候群は、そのメカニズムが(ある程度)明らかにされた終盤でこそ「罪を引き受けるもの」として描かれているが、鬼隠し編~罪滅し編まではこのようなサウンドノベルという形式の自明性と人間の認識を巧みに利用したトラップであり、またそれゆえに表現形式と自らの認識という「自明を疑う」ことを要求する巧みな演出であったと言える(注3)。そしてまた、かようなテーマ性を持っているからこそ、たとえ中身そのものが「ご都合」といった批判を受けたとしてもなお、症候群という表現形式は重みを持ち続けるではないだろうか(逆に言えば、表現形式が違うという事情があるにせよ、見えているものへの疑いを先んじて提示してしまうアニメ版では、このような自明なるもへの疑いがあまり有効性を持たない)。


結論に移ろう。
以上から明らかなように、症候群とサウンドノベルという表現形式は、推理だけでなくテーマの側面からも密接不可分のものである(注4)。そしてそれゆえに、第三者視点を採用せざるをえないアニメや漫画への移植は、症候群から、「サウンドノベルという表現形式、そして自らの知覚という自明なるものへの疑い」というメッセージ性を奪い、単なる狂気の表現へと後退させてしまったと言えるだろう(注5)。


これこそ、ひぐらしがメディアミックスで失ったものなのである。



(注1)
ちなみに、作者は「ルール」を推理の対象として位置づけているが、本編中にはそのアプローチが正しいと証明するに足る材料が存在しない。詳しくは「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」などを参照)


(注2)
「自分が見えているものは正しいと認識しがち」という表現に対して「ポストモダンの状況では…」などと考える人がいるかもしれないので念のため。例えば多文化主義というのは「押し付けない」態度のことであって、自らの立ち位置を疑うということでは必ずしもない。より抽象的・一般的な言い方をすれば、「あなたはあなた、私は私」という考え方は、自らの拠って立つ枠組みを疑う姿勢に繋がるとは限らず、むしろ他者と向き合うことを回避し、現状に固執する結果を招いてしまうこともある。ゲイテッドコミュニティなどを想起。


(注3)
法則性を見出そうとする心理を見事に逆手に取っていることなども想起したい→「綿流し編再考」、「ひぐらしのイベントCGがない意味・効果」。さらにそれは「ひぐらし祭囃し~特に「神」に関して~」で書いた鷹野の憤りとも連動する。なお、そのような精神性は「この道、わが旅…」「世界への敵意と滅びの希求」などに繋がる。「自明を疑う」については(注5)を参照。


(注4)
最初の方でも述べたように、ドラマCDや小説という形式でも雛身沢症候群と共存しうる。また、主人公の視点に何らかの「縛り」があるという演出は小説においてはすでに何度もなされているという指摘も可能だろう(例えば筒井康隆の「くさり」)。しかしながら、受け手に直接的な視覚情報が与えられてるのとそうでないのとでは呪縛のレベルがかなり違うだろうし、またそれゆえに、ドラマCDや小説だとサウンドノベル程には症候群のメッセージ性が伝わらないのではないかと推測される(崇殺し編再考で述べた「上げて落す」も想起)。


(注5)
各編で見えるものが全く違うにもかかわらず、見ている人間は全く同じ(さらに崇編のお疲れ様会によれば各キャラクターの設定も同じ)。これは一体どういうことなのか、一体何が真実なのか…?このような問題意識が本文中で述べた自明なるものとせめぎ合うからこそ、真相がわかった時の衝撃は大きなものとなる。逆に言えば、アニメ版のように先回りして疑いの視点を提示されている場合、その衝撃は、無害化は言い過ぎとしても、かなりの程度緩和されざるをえないのである(これまた崇殺し編再考の「上げて落す」と繋がる)。

なお、この疑いを主人公の描き方に向けると、ひぐらしや「もやしもん」、「君が望む永遠」、「終末の過ごし方」、「カラマーゾフの兄弟」といった横の視点ができあがる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2009-03-08 18:40:15 | トップ | フラグメント59 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事