それを他者がどのように評価するか、そこに何が見えるか

2008-05-10 01:27:05 | 感想など
自分のレビューについて考えたとき、今と違って昔は他人(プレイヤー)の認識を強く意識していたように思う(特にひぐらし、君望、沙耶の唄のレビューに顕著)。そういう意味では、最近の自分のものの見方は随分貧しくなっていると言わざるをえない。


では、昔の視点を今一度意識するなら、最近のレビューはどのように変化しうるのだろうか?ここで「落窪物語」を例に考えてみよう。私はその中で死に際してなお出世を求める父中納言への不快感・違和感をストレートに表現している(物語内の論理で言えば、法華八講によって、彼のそういった現世への執着に絡む罪もあらかじめ解消されているのかもしれないが)。


作者の狙いとしては、父中納言の姿は現世に執着を捨てきれない人間の姿を描いているようも思えるし、不合理な願いを叶えることで姫君側の徳の高さを暗示しているようにも思える。そのような作者の見地で考えることは根本的に大事だが、彼の態度を当時の人々がどのように評価したかにも注目する必要がある。それがわかれば、単に私と作品という狭い二項関係から脱せるだけでなく、読者たちの反応からより正確に作者の意図を汲み取ることも可能になるのではないだろうか。


だいたいこんな具合だが、もちろんその感想が自分自身を映し出す鏡であることも忘れてはならない。例えば私の出世に対する考え方はすでに何度か述べたので繰り返さないが、父中納言への反感は、宗教的行事をわざわざやってもらってなお現世の栄達にこだわる部分にも感じているのかもしれない。とすれば、この反感は宗教と俗事に関しての私の考え方を照射していると言える(⇒「真の宗教」?)。


少し抽象的だが、父中納言について抱いた感情は以上のように広げて考えていくことが可能である。このような視点をもう一度思い返して、表面的な感想だけに終わらないよう心がけたい。
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