落窪物語~恩讐、特に中納言の出世について~

2008-04-24 00:57:39 | 本関係
10世紀頃に成立したと言われる『落窪物語』だが、今で言う「つまらないものですが…」にあたる表現がすでに登場しているなど、興味深い要素を多々持っており、一度は読んでみる価値のある作品だ。ここでは、物語の重要なテーマである恩讐と、それに関係する父中納言の出世について述べる。


○恩讐
継母に冷遇されていたのを他でもない姫君が赦し、かつその意をうけた少将(姫君の夫)は遺産相続や義父(中納言)の世話といった形でむしろ恩を与えていく。罪を赦すことで(特に)姫君の懐の広さと人格の高潔さが表現されていると思われるが、あるいは大団円を望む意識が作用しているのかもしれない(報復が新たな罪となることも関係しているだろう)。とはいえ、継母は父中納言のように自分の間違いを全面的に認めず、その意味では単純に「悪」が「善」に屈したというような見方はできないが、そういった部分を残したことはむしろ物語を単純さから解放したと評価できるように思う。


なお、これに関連して、アメリカの作家による『小公女』と日本におけるアニメ版「小公女セーラ」を比較してみるのはおもしろい。簡単に言えば、後者では主人公を冷遇したきた人間たちに恩(具体的には寄付金)を与えるという要素が追加されているのだ。主人公を支えたベッキーはともかく、なぜ仇をなしてきた者達にまで恩を授ける必要があるのだろうか?これをもって「赦しの日本」と「罪と罰の西洋」とまで言ってしまうのは一般化しすぎだが、それでも変化の理由・意図を分析する価値は十分にあるだろう(なお、ひぐらしのなく頃にをよくご存知の方はこの記事も参照)。


○父中納言
以下は、物語自体の批評と言うよりも自分の人間観・人生観だと思って読んでもらいたい。

年老いているとは言え、継母の言うことを鵜呑みにして姫君の冷遇に加担した父中納言のふがいなさは見ていて腹立たしいものがある。そんな父中納言は、少将の進言によって死の間際に大納言へと出世しているのだが、私にはそれがどうにも理解できない。そんな無能な人間を出世させること自体は、なるほどすぐに死ぬ人間なので大した実害はないと考えることもできる。しかし、死に際してまで出世したいと思う精神の方はどうしても理解できそうにない。物語が始まってから20年くらいの無能さを見る限り、中納言から出世できなかったのはむしろ必然だと私には感じられる(ちなみに、政治の世界でのあり方も家の中のそれと大同小異の様子)。そして彼自身、自分の振舞によって周りの人間の心が離れていっていることを自覚する発言をしている。とすれば、普通に考えて出世を望む気持ちは起こりようもないし、仮に起こったとしてもそれを表明するのは奇妙かつ恥知らずな行為だと言えるだろう。

にもかかわらず、彼は大納言の地位を望み続けた。その事実は、結局本当の意味で自分の罪も無能さも認めることができなかったことを暗に示しているのではないか?彼にあったのは、自分が「悪いことをした」という茫洋とした罪悪感、きつい言い方をすればせいぜい「感傷」程度のものではなかったか…本人による贖いの不在も含め、出世に関する中納言の態度は、そんなことを私に考えさせる。

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