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残滓たちの戯れ

2009-10-29 18:20:20 | フラグメント
今でこそ、思いついたネタは携帯にメモって草稿はノートにまとめるというスタイルを確立しているが、かつては勢いで書き始めることも少なくなかった。それでも一年目は、まだ大学院生で時間が有り余っていたこともその場の勢いで何とか描ききっていたが、さすがに仕事を始めてからはそうもいかず、さしあたって「草稿中」の状態にしておく事も何度となくあった。しかし不思議なことに、そういった「草稿中」の記事は一から書くよりもかえってやり難く、時には草稿を見返した上で一から全て書き直すことも珍しくはなかった。接ぎ木するにせよ再構築するにせよ、記事が完成した場合草稿は消去するか「公開」状態になるのだが、どういうわけか「草稿中」のまま放置された記事というものも少なからず残っている。そこで以後何度かに分けて、そのような残滓を掲載していこうと思う。なお、フラグメントと違いリンクや説明は一切つけず、草稿がアップされた日付だけを記載することとする。



<男キャラがいい味出してる>  2006-03-19 20:03:18
慎二、遙パパ、健さん


<働くことへの価値観の移り変わり> 2006-07-20 01:48:37
必死に働くことが当然のこととされた時代があった。その動機づけは、貧しさから抜け出すことであったり、またあるいは、理想的な家族像を提示し、車や家を購入することを家族サービスという点も含めて働くことの至上命題であるとするマスコミの「煽り」によるものであった。

そして、時代は変わった。娯楽が世界を覆い、あくせく働かなくても生きていけるようになったのだ。今日、もし「無邪気に」車や家族というものを信奉している人間がいるとすれば、それは哀れとさえ言える。だがその一方で、この傾向が続くはずがないのも事実だ。


<もへや>   2006-08-23 23:13:00
◎佐久間ちはる(同級生)
○黒川さとみ
△斉藤亜子

◎野々村美里(同級生2)
○田中美沙

真由美(下級生)


<げれげれ>  2006-08-27 01:52:28
ひぐらしが推理の仕方をどのように定義しているか考える場合、皆殺し編におけるおもちゃ屋の部活で、梨花が魅音のくじ引きに対してもらした感想はかなり重要な材料になると思われる。それを引用してみると、

*******************************************************************
どういう仕掛けで、どういう風に(くじを=筆者注)入れ替えているのかは
見抜けないが、そういう結果になる「過程」を通しているのは間違いない。
…こういう時、その「過程」が具体的にどうであるのかを知る必要はない。
どういう目的で、どういう結果をもたらそうとしているかだけで充分だ。
*******************************************************************

これを見て俺は「ふざけんな、そんなんで通用するか」と思った。推理ではなくてほとんど憶測だからである。しかし一方で、こういった姿勢への批判は、解答編にある、ひぐらしの方向性・内容が「推理ものというより物語」だとか「ホラー小説」などと言い、今ひぐらしの推理の「質」を論ずるのに異を唱える人がいるが、まったく馬鹿げていると言う他ない。というのも、「惨劇に挑め。」「正答率1%」といったジャケ裏の煽り文句があったわけで、ひぐらしが推理することを強く求めるゲームだったのは絶対に否定できないのだ。いやこれだけ推理へ強烈に誘っているのだから、むしろ単なる読み物として見ていた人の方が本質から遠ざかっていた、とさえ言えるだろう(出題編のお疲れさま会の内容を想起せよ)。


以上のことから、「ひぐらしは物語で推理モノとして考えるべきではなかった」という見解は、ひぐらしを肯定するために真実から目を逸らしているだけだと言わざるをえない。ではここから、皆編で提示された真相を、結果からではなく、あくまで当時の我々が推理可能であったかという基準で考えてみたい。※なお先に書いた本質とは、端的に言えば「書かれている内容から読み取れるもの」を指す。ひぐらしを推理モノではなく物語として見ていた人は、それを無視あるいは軽視している点で、本質からむしろ遠ざかっていると言えるのだ。


※結果を見た後でそれを正当化・補強する要素を抽出していくのは誰にでもできる(歴史学でもこのようなやり方をしてしまうことは少なくない)が、これはひぐらしにも当てはまる。例えば、ひぐらしの発売とほぼ同時期にひぐらしをプレイしてその方向性を考えてきた人々の営意を、皆編の結果から「推理を求めていなかった」と批判する行為がそうである。私も薬や推理の仕方などに関して「人為100%」には批判的に言及してきたが、そういった際「その時点でその考え方は妥当であったか」という通時的、同時代的視点を忘れないようにしたいと思っている。そうでなくては、ひぐらしの評価は一面的なものになってしまうだろう)。


<涼宮ハルヒへの反発>  2007-07-08 15:49:11
内容の良し悪しだけで作品を評価するのは殆ど不可能である。というのも、評価者の

俺にとっての(特に最近の)「涼宮ハルヒ」シリーズもその一つである。以前も書いたことだが、「涼宮ハルヒの憂鬱」などを読んで特におもしろいと思わなかった、あるいはむしろイライラさえしたのは、俺の中にある傍若無人な人間に対する嫌悪のため涼宮ハルヒの行動がしばしば神経を逆撫でしたのが大きい。俺の考えでは、「ハルヒのような奴が趨勢を決めるような世界など滅んだほうがマシ」なのであった。


ただし、主人公の側に反発をしたり、その行動をおかしいと思うことなどザラにあるわけで、それが「涼宮ハルヒ」シリーズ全体の評価にどうしてそこまで響くのかと思われるかもしれない。その答えは、主人公(キョン)によるモノローグを中心とする独特な文体にある。はっきり言えば、涼宮ハルヒの文体は押し付けがましいのである。もっとも、以前には古泉の話などが結構大きく扱われていたため主人公の視点は強く揺さぶりをかけられており、ゆえに「涼宮ハルヒの溜息」などを自分はおもしろいと感じたのだと推測される。しかし、涼宮ハルヒは自ら第三者視点を断つ動きに出た。それが「涼宮ハルヒの消失」における主人公の選択(ハルヒが世界の趨勢を決定する世界を選ぶ)であった。


これ以降、主人公が当然その世界を選んだ者として以前よりその姿勢に自信を持つ(より押し付けがましくなる)ばかりでなく、おそらくは読者もまたその世界を選んだ共犯者として涼宮ハルヒの世界を見ていくことを求められているようになったのではないか。この時点で、その世界を選ばない読者(俺)がより強い違和感を持つのは必然であった。

ただ、繰り返すがそういう違和感はどんな作品にも起こりうる。問題は、涼宮ハルヒの文体の押し付けがましさにあるのであった
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