何やかんやドタバタしとりましたが、「ひぐらしのなく頃に卒」最終話を見終わったので感想を書いておきますよと(ちなみに、以下では「ひぐらし 卒」や「ひぐらし 業」などと表記)。なお、前話の感想はこちら。
細かいことを言い出すとキリがないので今回3点に絞るが、結論から言えば「竜頭蛇尾」であり、大変残念な結末を迎えてしまったと言わざるをえない。「ひぐらし 卒」の「卒」とは、言うまでもなく「ひぐらし 業」の「業」と合わせてひぐらしという作品からの「卒業」という意味合いを持って作られたと考えられるが、正直今回の結末は「卒業」というより「埋葬」という言葉の方が相応しいとさえと感じたほどだ。以下、その理由を述べる。
1.惨劇にいたる理由がお粗末すぎる
これは再三再四にわたり指摘してきたが、結局この問題が最後まで大きく影響したという印象。もう少し具体的に言うと、「旧ひぐらし」(鬼隠し編~祭囃し編)における柱の一つは、「逃げようもない(少なくともそう思える)惨劇」だからこそ、どうしたらそこから抜け出せるのか真剣に考えざるをえないし、またそれでも救いが見つからない場合に「奇跡」を信じるのも無理からぬことである・・・という構造であったはずだ(だから羽入の存在が明らかになった際に、「そういう状況なら他にやりようがあったのではないか?」と色々批判されたりもしたわけだ)。
今回の「新ひぐらし」(ひぐらし業・ひぐらし卒)は、その核を全く欠いた話となってしまっている(梨花が地元から離れた学校を受験するのは自由としても、それに沙都子を巻き込む必然性はないし、沙都子はそれを拒否しない必然性もない。ゆえに、あの環境に倦んだ沙都子が100年の時を繰り返す必然性も感じられない)。そのため、最初の方こそ一体何がこの世界を成立せしめているのかを考えるものの、真相が明らかになるにつれて、「そんなものはいくらでも自力で防ぎようがあるだろう」という心境となり、それに関連して起こった惨劇も、それを逃れるための営為も、およそ全てが虚しく思えるし、ゆえにそこから何かテーマにつながるものを描こうとしたのだとしても、どれだけ視聴者に刺さるものになっているのか極めて疑問な作品となっている。
2.梨花と沙都子がお互いとの共存にこだわる理由が不明
これは1のように感じる背景を構成するが、もはや「絆」というより「呪縛」とさえ呼ぶべきレベルでお互いが近くにいることを求めあう理由がわからない。もっと厳密に言えば、「たとえ第三者から見れば一種異様に思えたとしても、この二人のこれまでの関係性を踏まえれば、ある程度納得せざるをえない」と思わせるような描写の累積が欠落しているのである(例えば梨花の部活メンバーを救済することへのこだわり[これとて十二分に説得的とは言い難い]なら旧ひぐらしでも繰り返されているが、それは沙都子だけに限定されるものではない)。
であるがゆえに、梨花が沙都子と同じ学校に進学してもらうことへ固執する理由がよくわからないし(症候群が完治していることもその印象を補強する)、沙都子が梨花に雛見沢へずっと残ってもらうことに執着する必然性も理解しづらい(自分が梨花の願望のためにやりたくない勉強を強いられるのを拒否するだけなら、普通に飲み込めるのだが)。
さらに言えば、時代性のこともある。私はここ最近、バトロワ系のような弱肉強食的世界観を踏まえながらも、「絆」の重要性を描いた傑作が世間で話題になっているとして紹介してきた(「鬼滅の刃」、「チェンソーマン」などだが、遡れば「魔法少女まどか☆マギガ」や「BEASTARS」なども該当する)。
単純化して言えば、人などの流動性が上がった現代社会においては、伝統的共同体が解体に向かっていることなど(もちろん地域差はあっても)もはや自明で、その中で大きな正義を容易に信じず(なぜなら場所が変われば正義も変わるから)、自分にとって「得」になるようなポジションをいかに探求するか、というのがバトロワ系の発想と言うことができる。
しかしそのような発想においては「金の切れ目は縁の切れ目」であり、常に自分が切り捨てられることに怯えざるをえず(それをカリカチュアすれば「鬼滅の刃」における下弦の「パワハラ会議」になる)、またそもそも己の損得しか勘案しない人間は最終的に人から信頼されることは難しく、いつ裏切られる・見捨てられるかもわからないのだ(「情けは人の為ならず」という言葉はそれを端的に表している)。こういった状況を踏まえ、改めて「絆」がクローズアップされるようになるわけだが、その文脈で梨花と沙都子の関係性描写やそれを巡る葛藤が説得力を持つかと言えば、かなり難しいのではないだろうか。
なるほど50年ほど前なら、このような伝統的共同体をバックグラウンドとしたしがらみやそこから脱出したいという渇望は、まだ(そこまで描写を重ねずとも)人々の共通前提に訴え、説得力を感じさせたかもしれない。しかしもはや、その解体は(限界集落といった言葉をわざわざ出すまでもなく)自明の前提であり、そこからの解放を訴えても何ら新しさがない、ということである(例えば、甲府の空洞化を描写した映画「サウダーヂ」など、どこまでコミュニティが解体してきているのかをテーマにした作品でさえ、すでに10年前のものとなり、いささか古くなってきているほどだ)。
まああえて良心的に見れば、「雛見沢とその外側」を「日本と世界」に置き換えれば今日でも多少通じるものはあるかもしれないが、それでも結局「梨花-沙都子の関係性描写の不足」やそれに基づいた「両者の固執に説得力を持たせることの困難さ」は変わらないため、残念ながら厳しい評価は変えようがないと結論づけられる。
3.「虚構内虚構」ですらないことによる違和感
沙都子が犯してきた罪と罰の問題をどう処理するか考えた場合、その解決策は「現実との切り離し」だと予測し、「ひぐらし 卒」の世界は「虚構内虚構」だと想定したが、それは結局誤りだったらしい。
そしてこのことを踏まえると、最終話の描写は非常に違和感があるものとなっている。具体的には、リナ、鉄平、悟史、鷹野、富竹らが幸せそうに暮らしている姿を描写しているのだが、要するにそれは「繰り返す世界を通じて幸せになった者たち」の姿を描くことで、「沙都子のエゴから始まった繰り返す世界は肯定できるものだった」、と表現する意図を持ったものと考えられる。
いやいやちょっと待ってほしい。改心しようとしてレナに歩み寄ったのに惨殺されたリナは?あれだけ沙都子に親身になったの殺された鉄平は??それは何も彼・彼女らに影響を与えていないのだろうか?そしてもっと言えば、「他人の運命を弄んだ」沙都子の罪と罰は一体どうなったのだろうか?
なるほど叔母を撲殺した悟史が目覚め、(少なくとも)幾人かの殺害に関わった鷹野が富竹と一緒に雛見沢の入江診療所を尋ねられる境遇までなったわけだから、「登場人物たちが過去に犯した罰は(何らかの形で)十分に贖われた」、と言いたいのであろうと予測はできる(ゆえに沙都子も同様、というわけだ)。
しかしそれにしては、繰り返す世界の負の側面を全く描いてないため、これでは「都合の悪い部分は排除して、無理やり大団円のように演出しただけ」であり、むしろそれは罪や罰の赦しではなく「単純な忘却」でしかない。このような意味で、「ひぐらし 卒」は最も性質の悪い選択をしてしまったように私には思える。
いささか大きいテーマに触れておくなら、これは帰責性の関わることで、確かに罪を犯した者に何としてでも罰を与えたいというのはただの「溜飲を下げたいだけ」であり(これは「正義」を背景にするだけに抑えるのが難しく、これはこれで非常に性質が悪い)、そのような態度を避けるべきというのは理解できる。
しかしながら、罪と罰の問題は単純に抹消されるのではない(それはただの忘却に過ぎない)以上、何らかのペナルティを与えはしないにしても、そこには断念や手打ちの領域に属する描写が必要だったのではないだろうか(その意味で言えば、最終話でそれを描いていたのは、園崎家頭首と大石・熊谷の邂逅シーンくらいだった)。
以上のような理由で、「ひぐらし 卒」で描かれた世界が単純に旧ひぐらしと接続され、加えてその世界のプラス面しか描かず、(おそらくは意図的に)沙都子の所業の応報を何も描かなかったのは、繰り返すが罪の赦しなどではなく、むしろ都合の悪いことは何も見ず、ハッピーエンドに耽溺するという最悪の描写であったと私は評価する次第である(ちなみに、私が「もうAIやVRの奴隷でよくない?」と半ば皮肉めいて語る世界は、こういう思考様式が支配する世界であるとも付言しておこう)。
どうもひぐらしの作者にはうみねこの頃から「頭でっかち」になりつつある印象を抱いていたが、今回の結末でそれは確信に変わったのであり、そういう説得力なき終焉である以上、「ひぐらし 卒」はひぐらし世界からの「卒業」というよりは「埋葬」となってしまった、という冒頭の言葉を繰り返しつつ、筆をおくこととしたい。
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