「ひぐらしのなく頃に」をプレイして

2005-12-12 03:21:35 | ひぐらし
以前書いたように、私が解釈に目覚めたのはひぐらしをプレイしてからだった。これには、ひぐらしが推理モノで、しかも(選択式ではなく)一本道の物語を自分なりに推理して真相を暴く、という性質のゲームだったことが影響している。ぶっちゃけて言うと、自分で考える余地が大きいってことだ。

そのために、登場人物の発言などを細かく分析する必要性が出てくる。つまりそれは「今のはどんな意図で言ったのか?」「何でコイツがそんなこと知ってるんだ?」など疑問に感じた部分を考えるということ。そこから当然「発言の必然性」という概念が生まれてくる。詳しく言えば、発言が性格的・立場的におかしいかどうかを分析するのだ(もしおかしいと感じたら、それは推理上重要なヒントになる)。

こうして、個々人の発言に対し意識的に注目するようになった(余談だが、この視点は「君が望む永遠」や「腐り姫」で非常に有効)。ところで、私はひぐらしを2005年1月下旬から始めたため、ほとんど同時期に(解答編の)目明し編をプレイすることになった。その結果、本編の記述に仕込まれた多くのミスリードを強く意識することができた(クリア後の「お疲れ様会」ですらミスリード地獄だし)。以降「製作者はどんな意図でこんなことを喋らせてんのか?」という視点が追加された。詳しくは触れないが、これが「作者の主張と演出の結びつき」という視点を意識することに繋がっていく。

それは結果的に、より広い範囲で作品を解釈する素地を私に植え付けてくれたと言える。そして、前述した「発言の必然性」と結びつくことによって「演出方法の妥当性」(演出の仕方が妥当であるか否か)という作品一般に適応できる基準を意識させるに至ったのであった。そこから人間関係の構図の作り方とか「理解型主人公」(感情移入を目的とせず、客観的に見ることを受け手に要求する主人公)という概念に発達していくのだが、それはまた機会があれば書きたいと思う。

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