「清貧」という言葉のレンジ、あるいはそれを夢想する人々への懐疑について

2022-01-21 17:30:00 | 生活

「清貧」という言葉を聞くと、その「貧」は一体どういうレベルを想定しているのか?といつも疑問に思う。

 


例えばうちの電子レンジは上京した当初に購入したもので、すでに20年以上使っている。まだ何の問題もなく動いており、機能停止するまでこれからも使い続けるだろう。しかし、PCは動かなくなったら色々使う必要もあるのですぐに10万以上のものを購入した。これは「清貧」にあたるのだろうか?

 


まあこういった疑問も、個人のレベルであれば別にとやかく言うつもりはない。それが「清貧」だろうが「ミニマリスト」だろうが、各々望むレベル感で生活するとよいのだから(「それは本当に自由な選択の結果なのか?」という重要な視点もあるが、ここでは掘り下げない)。

 


しかし社会、あるいは社会政策となったら話は別だ。「高福祉社会」やら「小さな政府」やらが一体どのレベルを想定しているのか(言葉の独り歩きによって同床異夢も甚だしい状態になっていないか)が重要なのと同じで、「貧」がどういうレベル感を設定しているのかも中身の吟味が必要だと思うのである。

 


例えば以下のような具合だ。


(1)携帯を持っているのは「貧」になるのか?
(2)ガソリンがリッター1000円で生活せねばならないのは「貧」なのか?
(3)総合病院は大都市圏でない限り100キロほど離れているのは「貧」か?
(4)四年制私大に子供を行かせられる所得のある家庭が全体の1/4であるのは「貧」と言えるか?


少し混乱された方がいると思うので説明すると、ここでは
(1)個人(ないし家庭)に対する評価基準
(2)円安・円高含めた国際比較とその変化
(3)生活インフラについての捉え方
(4)格差問題
をあえてごちゃ混ぜにして列挙している。

 


おそらく様々な形で違和感を覚えるものと思われるが、まさにそれこそ重要なのだ。つまり、「清貧」といった時に、「贅沢を我慢すること」をイメージする方はそれなりにいると思うが、では(2)のケースはどうか。

 


日本が経済的に衰退し円が弱くなったとして、ガソリンが値上がりした場合に車での移動を控えて徒歩・自転車で移動するように変えるのは、「清貧」の範囲に入るのだろうか(一旦ここでは炭素税導入によるエネルギーシフトのことは横に置いて考えている)?こう問うた場合に、都市圏や郊外住まいの方であれば「むしろ健康的でよい」と言われるかもしれないが、車が必需品である地方においては、そのまま生活費の高騰=深刻な問題として理解されるだろう。

 


同じようなことが他の項目にも言えて、(1)ならば携帯の所持自体は必須ではない=持てる人は余裕がある≠「清貧」と思うかもしれないが、そもそもDX化が進む社会において携帯がないことは、即ち多くのサービスから排除されうることを意味する。それは就業活動にすら大きな影響が出うるという意味で、生活に直接関係するのである。

 


あるいは(3)について言うと、仮に「清貧」を「脱成長」と読み替えるなら、これからの日本は人口減少や都市構造の変化、生産年齢人口の減少によって病院の淘汰(統廃合)が進む可能性は高い。それによって、受けられる生活サービスが命に関わるレベルで大きな変化を余儀なくされるかもしれない、という水準まで「清貧」の中に含まれているのか、私には甚だ疑問である。

 


ここまでの話を踏まえて書けば、要するに巷間言われる「清貧」の内実は、その多くが思考停止的コンサマトリー(まあ多少キツくなっても我慢すればいいや)と何ら変わるところがないのではないか?と思えてくる(コンサマトリーについては前回の記事も参照)。その意味では、ある程度資産に余裕のある人々か、もしくはよほど将来像が不明瞭な人間の思考と言えるのではないだろうか。

 


もしこの見立てが正しいなら、「清貧」などと言って現状肯定しても、これから衰退の余波がさらに様々な部分に及び、そこで初めて「こんなはずじゃなかった」と文句を垂れ流すが、社会は不可逆なまで疲弊が進んでしまっており、後悔しても時すでに遅し・・・という状態になるのではないかと私は思うのである。


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