研究の限界に対する自覚の必要性

2005-10-04 00:00:31 | 抽象的話題
※本ブログは、以前書いた「日本人と宗教」「感想:『キリスト教と日本人』」 を土台の一部にしている。見ていない方は、先にそちらを参照されることをお勧めする。

研究をする際、理論と実証の二つが柱となることは言うまでもない。明らかになった事柄をもとにデータを集積して理論を構築する…これが一般的なパターンだろう。あるいは逆に、他の事象・分野で考え出された理論を違う対象に投影し、一致するか否かを検討する、こういった手法もある。しかし、後者のやり方で恐ろしいのは、理論に振り回されて対象の性格を都合よく改変してしまうことである。少しでも実証的研究を行った人ならわかることだが、ものごとの性質がある一面で説明できてしまうことなどほとんどない。これは、(昔の人間は言うまでもなく)当事者たちが我々と違う社会状況・合理性の中に生きていた以上必然的なことと言ってよい。理論というものは、その構築者はまだしも、継承者たちに対して文脈が捨象され特徴・字面だけが刷り込まれるという性質を持っている。それゆえ継承者たちは、理論に当てはまる事柄を強調し、さらに理論を証明するためにことさら当てはまる事象のみを抜き出し、ついにはある事柄を理論に合うように改変することさえ行うのである。このことは、西欧優位史観やマルクス主義史観の影響が未だに抜けきらない日本において、若手研究者には特に理解されるところであろう。

では一方、実証中心の研究方法はどうであろうか?実はここにも危険が潜んでいる。例えば、何かについて質問をし、統計学的データを取るとしよう。それに応じて結果を言い、結論に繋げるわけだが、それは全く客観的なデータではありえないのである。詳しく言えば、前提となる質問の内容・地域・質問の対象者などの中に、ある一定の傾向を生み出す要因が仕込まれている場合が往々にしてある、ということだ。これは得られらたデータから特徴を抽出する場合にも当てはまる。しかし研究者は、データを取ったということと特徴あるデータが出たということで満足し、それを見る側はデータという客観性の感じられるものによってより無批判に受け入れてしまいがちである。

もう一つの問題点として、合理的思考による解釈というものがある。これは、資料の不明な点を推測するとき、我々が否応なしに行う作業である。この作業を否定するつもりは無論ない。だが、その作業にあたっては(現代のではなく)同時代の合理的思考が常に意識されなければならない。近代合理主義と評される社会に生きる我々にとって、合理的思考はより馴染み深いものになっていると言えるが、当時には当時の社会状況・慣習などに根ざしたそれなりの合理性が存在したということを常に念頭に置く必要があるだろう(我々にとって荒唐無稽に思える考えも、同時代人にとって合理的であることが少なくない。これは異文化研究にも当てはまる)。一例を挙げておこう。主張することが重要とされる社会では、自分の非を認めるどころか屁理屈をこねることが往々にしてある。これは、非を認めることが「潔い」という風には捉えられず、単純なる「悪」とされる社会において、まさに「合理的」な対応と言えるのではないだろうか。

結局のところ、我々はバイアスというものの制約から免れることはできない。言い換えればそれは、全く客観的な研究というものは存在しないということでもある。我々は「真実の歴史」というものが存在すると想定するのと同じように、「全く客観的な視点・研究」というものが存在すると考えてしまってはいないだろうか?はっきり言えば、それは全くのフィクションである。物事を解釈するのが人間である以上、繰り返すがバイアスの制約を免れることは不可能なのである(この意味で、考古学を「科学的学問」だと考える風潮には全く賛同できない。言うまでも無く、モノを解釈するのは人間であるからだ)。それ自体を責める気は毛頭ない。ただ、その限界を常に認識して研究することが重要であることを指摘したいのである。

そして、そのような限界を認識しながら、よりバイアスから免れようとする努力とともに実証を重ねていかなければならないところに研究というものの困難さがあるのではないだろうか。

追記
そうであるが故に、多くの実証が必要とされている現状を無視し、マルクス主義史観を始めとする数多くの理論が未だ横行している状況に疑問を感じずにはいられない。
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5 コメント

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Unknown (長大の財前)
2005-10-04 14:21:12
人文系は難しいよ。理系でもバイアスかかるんやから。
返信する
Unknown (長大の財前)
2005-10-04 14:50:48
人文系は難しいよ。理系でもバイアスかかるんやから。
返信する
だからこそ (熊八)
2005-10-04 17:46:07
限界を常に自覚する必要があると思うのよ。論文はある意味小説だしね。
返信する
長々と (Jがいる)
2005-10-04 22:25:02
 人は今、あるいは近い将来の理想に合致するものであれば、それを真なるものとして認めてしまいがちですよね。健康法紹介番組である食品が取り上げられた日の翌日のスーパーの様子なんかをみるとなんか、そんな気がします。

 へんてこな例しか出せませんが、客観性というのも目下のつじつまがあい、皆が賛同すれば得られるものであるということがいいたいのですが…。

 客観という概念自体、現代に広く浸透した観念だし、そういう意味では客観性にこだわるということ自体も現代的バイアスがかかった行為なのかもしれませんね。

 人は人が認知できるもの(直接的であれ間接的であれ)に関してしか話はできないのだから、人間ということで神のみぞ知る普遍の真実を得ようとする時点で、無理は決まっていると思うんですよね。その意味では科学もどこまで科学だかわからなひぃぃ。だから俺は人間をやめるぞ、熊八ィィー!

 とはいいつつ、人は人にしかできないことがありましょうから、その可能性の中に未来を夢見ているつもりです、私は。

 話がズレズレデレデレでんがな、、、長々と失礼いたしました。

 遅れましたがブログ開設おめでとうございます。
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Unknown (熊八)
2005-10-04 22:54:33
>人は今、あるいは近い将来の理想に合致する

>ものであれば、それを真なるものとして認め

>てしまいがちですよね。



同感です。本来手堅い武将であったはずの織田信長が、高度経済成長期に「風雲児」というキャラクターを与えられ、今もってそのイメージで語られたりすることなどがいい例かと思います。



>客観という概念自体、現代に広く浸透した観

>念だし、そういう意味では客観性にこだわる

>ということ自体も現代的バイアスがかかった

>行為なのかもしれませんね。



これも確かに。どこかは忘れましたが、蛇という普通名詞が13種類ある言語があるとかないとか。とすれば、同じものを見ても概念化の過程がすでに異なっていることになります。研究の現場で言えば、英語のReligionという概念がどこまで有効性があるのかという議論が1980年代あたりから特に叫ばれるようになったことは記憶に新しいですね。



>人間ということで神のみぞ知る普遍の真実を

>得ようとする時点で、無理は決まっていると

>思うんですよね。



これまた同感です。例えば、隣家の人間が何をしているか、昨日何をしたかわからないということが往々にしてあります。なのに昔のことがはっきりとわかるなんて、よく考えればフィクション以外の何者でもありません。



>人は人にしかできないことがありましょうか

>ら、その可能性の中に未来を夢見ているつも

>りです、私は。



そうですね。「人にしかできないこと」の範囲を認識することが大切だと思います。
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