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ゴシップ記事が隆盛する土壌

2006-01-24 00:09:51 | 感想など
※まずはじめに断っておくが、私には海外の新聞記事などについての知識が乏しい。また発行部数を比較対照した本をよんだわけでもない。それゆえこの記事は粗描の意味合いが強い。読まれる方はそれを意識してもらいたい。


今日友人に聞いた話では、ゴシップ記事が日本とアメリカにおいてよく売れ、逆に例えばフランスなどでは人気がないのだと言う。思うに、これは道徳観念の違いに根ざしているではないだろうか。日本について言えば、例えば過去の性モラルの理想化(全くフィクションにしか思えないが…)に見られるような、昔の日本を基準とするものの見方である。またアメリカについては、しばしば指摘されるピューリタニズムである。それらがともに「かくあれかし」という基準なわけだが、それは現在の状況の批判として働くことは言うまでもない。そして、基準と現実の乖離が大きければ大きいほど、批判されるべきものの数は増える。一つはそれがゴシップ記事の多さに繋がっていると思われる(注)。

そしてまた、そういった「かくあれかし」という基準が強ければ強いほど、「破りたい」という衝動は強くなるのではないか。しかし自分で破ることまではしたくない。だからはけ口となるものが求められる。そこでゴシップ記事の登場というわけである。そこに出てくる「不道徳」や「悪」を見ながら、受け取り手の多くは基準との乖離という理由で批判を口にしながら、同時に自らの欲望の補償も行っているのだ。そういった受け取り手の希求が、ゴシップ記事の増大をもたらすもう一つの理由と言えるだろう。

以上のことは、例えばフランスが道徳的に堕落しているといったことを意味しない。重要なのは、基準と現実がどれほど乖離しているか、ということなのである。その乖離が激しければ激しいほど、(ゴシップの範囲が広がるために)ゴシップ記事はより多く生まれ、またそれを(基準に抑圧された)人々が求めるゆえに価値を持つ。日本とアメリカにおけるゴシップ記事隆盛の一因は、そのような構図にあると考えられる。

(注)これとは若干違うかもしれないが、法定速度とスピード違反が一例として挙げられる。当然のことながら、法定速度を守って運転しても記事にはならない。法定速度を20~30キロオーバーしてもやはり記事にならない。だが、80キロオーバーしたらどうか?ほぼ間違いなく暴走車として記事になるだろう。そこから言うと、アメリカと日本は法定速度が低く(=基準が厳しく)、よって「より」多くのスピード違反、暴走が記事になる。片やフランスは法定速度が高い(=基準が緩い)ため「より」少ない量しか記事にならない。
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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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猥褻について (ひきた のぶひろ)
2006-01-24 12:50:19
>日本について言えば、例えば過去の性モラルの理想化(全くフィクションにしか思えないが…)に見られるような、昔の日本を基準とするものの見方である。



猥褻罪の判断基準は、ある意味過去の性モラルの理想化を体現した基準だといえる。

そこで、時代の潮流としては、そのような基準ではなく個人の性モラルを重視すべきである。とされている。



これはもはや、その実態が捉えられなくなってしまった過去の性モラルつまり社会的モラルから、刻々と変化を続け多様化している個人的モラルへのシフトを模索する動きといえる。



しかし、猥褻罪は刑法でいうところの社会的法益である。

人が人として生きてきくうえで欠かせない、否、むしろ個人は社会とは切り離せない存在(個、即、類)だと考えれば、社会から個人へとシフトする動きはナンセンスなものだと考えられる。



では、猥褻罪が守っているものはいったいなんであろうか。



それは、種の保存だという考えが示される。

つまり、猥褻なものを与えられ続ければ、さらに刺激が強いものでなければ反応は鈍くなる。感受性の強い幼少期ならばなおさらである。そのような強い刺激を与えられ続けた子供が成長すると、種の保存活動としてのSEXには反応を示さなくなる。それを防ぐために、猥褻罪をあえて社会的法益としているとも考えられる。



さらに、猥褻罪の一部には、その犯罪が成立するためには「公然」とこれを行わなければならないという制限もつけられている。

これは、すべての猥褻行為を禁止する意図ではなく、公然と行うことの結果として、個人=社会の生殖行動意欲を減退させることを防ごうとする意図ではないだろうか。



以上、御意見賜りたい。
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Unknown (nnn)
2006-01-24 14:22:30
フランス人は「他人の個人的なことよりも一般的なことに関心がある」らしく、

「他人のスキャンダルに関心を示すのは幼児性の表れと考える」傾向があるそうです。

その国民性がどこから来たのかはわかりませんが、

これがゴシップの流行らない原因でしょうかね。

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理論か実態か (ボゲードン)
2006-01-25 20:24:04
ひきたさん



返信が遅れて申し訳ありません。



法社会学の見地からのご指摘ありがとうございます。ただ、猥褻罪ということになると、より概念が限定されてくるので難しいと思いますが、一応私見を述べさせて頂きたいと思います。



>では、猥褻罪が守っているものはいったいなんであろうか。



>それは、種の保存だという考えが示される。

つまり、猥褻なものを与えられ続ければ、さらに刺激が強いものでなければ反応は鈍くなる。感受性の強い幼少期ならばなおさらである。そのような強い刺激を与えられ続けた子供が成長すると、種の保存活動としてのSEXには反応を示さなくなる。それを防ぐために、猥褻罪をあえて社会的法益としているとも考えられる。



構図としてわからなくはありません。例えば猥褻なものが氾濫すれば、SEXの代償となりうる自慰行為がより頻繁に行われると考えられるのと同じように。ただ、それがそのまま「種の保存活動としてのSEXには興味を示さなくなる」と言えるのかどうか、疑問であるように思います。例えば仮にSEXに快楽しか求めないにしても、それはイコール種の保存に繋がらないということは無いでしょう。実際、この世には「できちゃった婚」というのが数多く存在するわけですから。ならば、強い刺激が快楽の追求にはなっても、種の保存に影響云々という話に繋げてしまうのは問題があると思います。そもそも、刺激が与えられれば実践しようとする人間がそれだけ出てくるはずです。それは、結婚とか扶養とかいう問題を抜きにすれば、むしろ種の保存に繋がる行為なのではないでしょうか?社会や家庭は、社会的立場と性的欲求&行為が乖離することの「社会的」危険性を承知しているが故に猥褻なものを遠ざけようとする部分が意識的・無意識的にあると私は考えているのですが、種の保存という見地からすればむしろその方が法則に反する行為なのではないかという気がします(以上は社会的な「正義」「悪」といった問題を度外視して述べています)。



以上、自然を基準にした種の保存と猥褻罪に関する私見を述べましたが、ひきたさんのおっしゃる種の保存、あるいは猥褻罪適応の際に念頭に置かれる種の保存が(結婚などの)「社会契約」を枠組みにしたものであるなら、この限りではありません。



また、ひきたさんが法理論の方に重きを置いているのか、あるいは実際統計などで傾向が証明された社会学的根拠に基づいた法判断についておっしゃっているのかがわからないので、とりあえず以上の私見を述べるに留めておきます。私はそのあたりに詳しくないので、そういった猥褻と種の保存という考え方が生まれた背景も教えていただければ幸いです。では、失礼します。
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一般的基準の適応範囲 (ボゲードン)
2006-01-25 23:44:31
nnnさん



なるほど、そういう分析があるんですね。そう言えば、ファシズムの反動から個人主義がかなり厳格に行き渡っていると言われるドイツもそんな雰囲気を感じますね(もっとも、オリバー・カーンのゴシップ記事などはありましたが)。



>フランス人は「他人の個人的なことよりも一般的なことに関心がある」らしく



そうすると、日本やアメリカは他人の性モラルなどについて一般的な規範を適応しようとする傾向があり、一方フランス人はそれが一般的な問題になる(値する)とは考えていない、という違いがあるのかもしれませんね。
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