鬼隠し編:疑いと監視のスパイラルが惨劇を生む

2008-05-31 01:32:16 | ひぐらし
さて、前回の「雛身沢と現代社会のアナロジー」で症候群に対する製作者サイドの冷静な視点の提示に始まり、そこからアメリカとのアナロジー、すなわち疑い、監視といった共通点に話を広げ、最後はイデオロギー支配から寄生虫による支配へという雛身沢の統治の志向性の変化が、現代社会の規律訓練型(内面をイデオロギーや規律によって監視する)支配から環境管理型(非精神的なもの、例えば生理的嫌悪感やIDによる)支配への変化と似通っている、というところまで言及した。


ある程度は細かく説明したつもりだが、耳慣れない言葉に戸惑った人や、こじ付けのように感じた人がいるかもしれない。そこで今回は、「疑い、監視、症候群、惨劇」を軸にして鬼隠し編を読み解いてみようと思う。なお、こういった記事によって「ひぐらしがそのような枠組みをなぞっているにすぎない」などと貶めるつもりは毛頭ない、ということを念のため強調しておく(過去ログを見ればそれはすぐにわかるとは思うが)。


鬼隠し編における疑いは、富竹によって芽生え、大石によって(かなり)増幅される、というのは周知の事実だが、圭一がその疑いによってレナや魅音を完全に黒と決め付けたわけではない。実は、ある共通の契機をもって徐々にエスカレートしていくのである。それこそが、「見られていること」、すなわち監視の意識に他ならない。具体例を挙げてみると、

1.大石と車の中(もしくは車外)で会話しているのをレナに見られていた
2.大石と興宮の喫茶店で会話しているのを知られていた(=見られていた)
3.大石と電話しているのを見られていた(聞かれていた)
4.帰り道を後ろから付いて来るレナ(監視のため?)
5.豚骨ショウガ味を買ったのを見られていた

などだが、注目すべきは、そこから「監視されている⇒監視される必要がある⇒何か秘密を知ってしまった⇒何か秘密があるに違いない」というプロセスを通じて疑いが増幅されていることだ(※)。そしてこのプロセスの積み重ねが症候群を悪化させていき、最後は無実のレナと魅音を殺害するという惨劇にまで到ったのだ。ここには、疑いと監視の密接な関係、お互いがお互いをエスカレートさせるという悪循環、そのスパイラルの先にある惨劇(少し話を広げるなら無差別殺人などか)、という構図が提示されている。


ひぐらしの最初を飾る鬼隠し編がこのような構図を描いているのを思い返すならば、私が前回述べた話がこじ付けではないことも理解してもらえるのではないかと思う。


ついでに。
綿流し編についても触れておくと、園崎家の監視カメラはジョージ・オーウェルの「1984年」を連想させておもしろい。ひぐらしの舞台となる昭和58年は1983年であるが、まあこれはさすがに深読みだろう。深読みついでに言っておけば、あの有名な「目」も監視の象徴であり、また「1984年」のブックカバーの中心に描かれていたりする。



これに関して、「そもそも症候群の症状として追跡妄想といったものが存在するのだから、あくまでその症状の描写に過ぎない」と言う人がいるかもしれない。なるほどそれは一面として正しい。しかしながら、お疲れ様会で「なぜ喫茶店に行っていたことがバレていたのか」が話されている描写を見る限り2は妄想ではないし、また3は圭一の父親の証言に基づくものであり、かつ5はレナの具体的な発言である。要するに、圭一の行動が見られており、知られているのこと自体は事実なのだ(それが「監視ではない」というだけのこと)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雛身沢と現代社会のアナロジ... | トップ | ルーツの広告とゴルゴコーヒー »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事