雛身沢と現代社会のアナロジー~疑い、監視、「生―権力」~

2008-05-29 23:23:43 | ひぐらし
ひぐらしという作品が、政治、歴史、社会などについて数多くの風刺を含んでいることは誰の目にも明らかである。それゆえ、以下で説明していく内容は釈迦に説法かもしれない。とはいえ、アニメや漫画を通してひぐらしに触れる人、あるいはアニメ・漫画しか知らない人も増えている今、一年前に書いたような「ひぐらしを「ラノベ」と考える」人はますます増えているのではないかと思う(そもそも製作者側が二次創作を煽っているという事情もある)。


それゆえに、「罪滅し編覚書」で触れた「監視社会化、疑いと症候群、イデオロギーから「生ー権力」による支配」といった視点が、作者によって意識されているものだと示し、ひぐらし=「ラノベ」観では見逃されがちな側面を描き出す意味は十分にあると考える。


以下では、皆殺し編発表から間もない2006年1月にとらのあなが行った製作者インタビュー「ひぐらしのなかせ方」の記述を引用し、製作サイドが雛身沢症候群をどのように位置づけているのかを明らかにしたい。なお、筆者が使用したものは五回分のインタビューを再録したものである(引用は30pより)。

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―皆殺し編を最後まで終えてみて、雛身沢症候群というのは、本当に存在する物なのかという疑問がわいたのですが。

(竜騎士氏・八咫桜氏・BT氏、三人顔を合わせてニヤリ。)

―あああああっ、なんでもないです。

竜:
なかなか面白い話ですね(笑)。実は雛身沢症候群というのは存在しなくて、皆がそうだと思い込んでいるから妄想症になっているんではないかと言う説もある。ただ一つ言えるのは、実は雛身沢症候群というのはこの村のルールXYZの一つに、もっともらしい名前を誰かが医学ふうに名付けただけなんですよ。ただ本当に実は雛身沢症候群があるかどうかは、個々の読み方に委ねておきます。何しろ本当に実は雛身沢症候群が存在するならば、それは非常にメンタルな物ですよね。メンタルな物というのは区分けが難しいですから、何ともいえません。
ただ、目明し編でとっくに詩音が暴いたように、この村には綿流しの祭りの夜にはオヤシロさまの崇りの名の下に、一人が死んで一人が消えても許されるという思い込みが存在する。その思い込みが犯人と惨劇を生み出し続けているという仕掛けが、詩音によって看破されている。それを詩音は崇りシステムと呼んでいましたが、あるいはこれを医学的に雛身沢症候群と呼んでもいいんじゃないかと思うんですよね。
例えばこの中に皆さんでも知っている…さん症候群という言葉があると思うのですが、…さんは必ず日曜の夜に放映される。だからそれを見ると明日は月曜日、出勤かぁと思わずため息をついてしまう。でも…さんに有毒性があるわけではないですよね。普通のしかも人気のある長寿アニメである。この事例のように雛身沢症候群は、無意識下に作用する社会精神的病なんですね。作中では雛身沢症候群を精神的な病原菌によるものだと踏み込んでいるものであって、本当かどうかは怪しい。だから、鷹野というのがルールの一つを写した影であるように、雛身沢症候群も別のルールを写した影にすぎないんですね。
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以上の部分には、ひぐらし本編の狂気と密接な関係のある雛身沢症候群が、所与の(確定した)ものではなく、一つの「解釈」にすぎないことがはっきり示されている。この見解を見れば、ひぐらしの狂気が単なる風景(対岸の異形)ではなく境界線の曖昧な精神異常としてより不気味な迫力を持ったのも必然的だと思える。


それはさておき、ここで重要なのは、
「~症候群」というと医学的なレッテルのためにあたかも信憑性のある深刻な(確定した)ものだと認識されてしまいがちだが、実は単なる一つの解釈であって、事によってはちょっとした憂鬱な気分程度のものに過ぎない。
という製作者側の「~症候群」というものに対する冷静な視点である。この距離感と作中人物たちの症候群をめぐる態度の乖離を思うとき、すぐに連想されるのは「~症候群」がどんどん作られていくアメリカの状況である(日本もそれに近づきつつある)。


ちょっとした不適応や問題行動があると、すぐに新しい症候群がせっせと生み出されるのは喜劇的ですらあるが、そのアメリカが犯罪に怯え(他者を疑い)、監視社会への道を邁進しながら、なぜか高い犯罪率を保ち続けているという奇妙な国・社会であることはマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」などによって示されている。


疑いと監視といえば、一番最初の鬼隠し編がまさにその構造によく当てはまる話であったことを思い出すが、その結果は友人の殺害という惨劇だった。もちろんこれに限らず、疑心暗鬼は症候群を生み、症候群はさらなる惨劇を生み出すというのが全体に共通する構図であるが、これが上記のアメリカ社会と酷似していることは明らかである。


さらに言えば、罪滅し編の記述からは、雛身沢の統治のあり方が近代からポストモダンへのより大きな変化を意識していることさえ窺える。かつてお魎を中心とする強い団結意識によって、雛身沢が結束していたことは繰り返し描かれている(だからこその園崎「天皇」であり、PS2版のように園崎「明王」では意味が無い)。排他的な風土も合わせて、これをイデオロギーによる統治と見なすことができる(排外主義と国民国家)。そして罪滅し編に到り、かつての強い(?)寄生虫に感染させる事で、オヤシロさま信仰の衰退によって緩んでしまった統治を再び強いものにする、という話が出てくる。要するにこれは、イデオロギー(精神的なもの)による統治が難しくなってきたために、生理的なもの(精神以外の部分)によって統治をする(引き締めなおす)ということに他ならない。このような統治(秩序維持)の変化は、監視のあり方がイデオロギー(内面)から「生―権力」的なもの(生理的なものやIDによる管理)へと移行が進む今日の世界と類似しているのである(※)。


以上のように、雛身沢症候群、そして雛身沢のあり方は現在のアメリカ(日本)のみならず21世紀の世界とのアナロジーで描かれている(DVなども想起)。もちろん、後者は「終末作戦を隠蔽するためのカバーストーリーであり、そのような見方は批判的に描かれているのではないか」といった疑問が出ると思われるが、私自身は、カバーストーリーとして描いているのはそういった監視社会への批判だからであって、皆殺し編に出てくる「よそ者に開かれた社会」がそれに対置される理想的な社会という位置づけではないかと考えている。


いずれが正しいにせよ、ひぐらしがそういった要素を意識していることは確かであり、そこにも注目しなければ、魅力が半減してしまうことは確かだろう。



イデオロギーから「生ー権力」という構造、及び個々の詳しいあり方についてはミッシェル・フーコー『監獄の誕生』などを参照。ただ、社会の変化については東浩紀の『東浩紀コレクション 文学環境論集』などが読みやすいと思われる。

なお本文で述べたことを簡単に説明すると、今日の管理・監視(統治)のあり方は、道徳などの精神に訴える近代の規律訓練型から、生理的なものやIDなどによる、つまり個々人の道徳といった内面には期待せずそれ以外で管理しようとする「環境管理型」(東浩紀)へと変化している、ということである(価値観の多様化により、内面での統一的な管理はますます難しくなってきているため)。両者の違いを狭い道における制限速度を例に説明しておくと、前者は制限速度の標識によって交通の秩序を守らせ事故を防ごうとする。一方後者は、中央線を消して自分の領域を曖昧にすることでドライバーにスピードを落とさせ(慎重にさせ)、事故を防ぐ。そこには、個人が規律を守ることに期待せず、生理的に守らざるをえない方向へもっていくという特徴がある(その他では、マクドナルドの固い椅子⇒客が長時間居座るのを防ぐ、という例が有名)。

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