先日行った毒書会で「ファスト教養」を取り扱い、その前に様々な記事を書いたが、こちらがプロトタイプとなるものである。これを元にしつつ「いわゆる『ファスト教養』それが波及する必然性について」の覚書などを作成していった次第。一部まだ記事にしていないものもあるが、まあため込んでもいつ掲載することになるかわからんので、今のうちに書いておこうと思う。
「教養」って結局文化人のポジショントーク程度のものなんじゃね?
知識社会学。マンハイム、パーソンズ、マルクス、ヘーゲル、フーコー。イデオロギーとユートピア。それになぞらえれば、ファスト教養は対照的やな。自由な~の可能性。小室直樹。アカデミズムの党派性というものを、教養を称揚している人はどう考えているのか?血塗れになる覚悟はあるのか?
シニカルなのは、教養そのもののあやふやさに関わらずそれを実態があるかのように語る人々、そして~な人々の状況を踏まえず、ただ腐していれば説得できるかのように思っていることに対してだ。
輪中とは?平行四辺形の面積の公式。ミスリーディングなhad better、時代錯誤な感嘆文。最大公約数と最小公倍数(整数論)。管鮑の交わり、漢文の句法。ド・モルガンの定理。理系が何で「教養」に入ってないの?ヴィトゲンシュタインや小室直樹。前者の説明に集合論の記号。後者は数学。行列や線形代数。もう少し狭めるならバルトリド。堅実な考察、学問への姿勢。
私にとっての教養について書いた。まだ読んでないが、現時点の認識。
教養の定義、教養の歴史性、教養主義、教養の必要性とは?
教養のレンジとその恣意性
わかりやすく古典の話をした。どこまでが教養?マクスウェルの電磁気学は?フロギストンの歴史的経緯は?三角関数は?「理系」が排除されていないですか?しかし、例えば「万物のアルケーは数」と述べたピタゴラスの作った教壇での研究が、音階の発見に繋がった。あるいはフーリエ変換と音楽は?ハーバードには何で音楽学科があるの?云々(中世キリスト教やイスラームでは歌舞音曲が人を堕落させるものだとみなされ疎まれる風潮があった、といったことにも注意する必要あり)。そもそも文系・理系なんていう分け方自体が恣意性の最たるもので、文系の知識は多少知っているからとマウントを取るのは、つまるところ学生時代の地位に寄りかかってマウントを取る学歴厨と根っこは同じだ。
恣意性と増え続ける情報、ファスト教養の必然
例えばFRB、ウクライナ侵攻とネオ・ユーラシア主義、行動経済学、カオス理論、ディープ・ラーニング。これらは「教養」に入るのか?新しい情報が日夜生成・更新。それにキャッチアップしようとしたら、20世紀より遥かに難易度が上がっている。ならば何も知らない(すなわち見識が疑われるような)状態は避けようと、手っ取り早く情報を摂取しようとするのは合理的かつ必然的な行動(→暇の動画)。ゆえに、これを批判するなら、オルタナティブを真剣に考えるべき(古文・漢文の話)。じゃなきゃ老害の戯れ言(頽落した権威主義)として「うっせえわ」と言われてもしゃーないですな。
自らの佇まいにまで及ぶ。自家薬籠中のものとする。
例えば日本における同性愛の話に対し、瞬時にファクトとしておかしいと反論できるか。できないなら、それは単なる瓦礫である。
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