負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

コンピュータ通信は「知の拡大」のために始まった

2006年10月01日 | Weblog
インターネットが産声をあげたのは、1960年代、エンゲルバートが考えた「人類の知を拡大するための概念図」が、米国防総省の高等研究計画局(ARPA)の資金をえて「ARPANet」としてスタートした。はじめは、国防総省と数少ない大学の研究機関を結んだだけだった。目的は国防に関する情報の共有・分散で、文字どおり「知の拡大」を図るとともに、冷戦時代の仮想敵国による攻撃への備えでもあった。

1980年代年代になってから、ネットワークは一般の大学、研究機関、企業間へ広がっている。日本では、1984年、UNIXコンピュータ間の接続実験「JUNET」が慶應義塾大学、東京工業大学、東京大学の間で始まった。インターネットはすでに初期の段階から、国務機関という権力側の情報管理やアカデミズムという別種のオーソリティ(権威)に深く結びついていた。

拡大する「知」は、将来のインターネットが孕む性格の一端をすでにこのとき垣間見せている。その「性格」は、私たちがありがたがっている今日のインターネットに見る情報の「押し付け」「垂れ流し」である。企業なら売るための情報、個人なら身の回りの情報と感想、官公庁なら都合のいいデータのおすそ分け、電子メールならボックスにあふれる製品PRと出会い系の迷惑メールである。

マイケル・クライトンのSFに登場する数学者が口にした何気ないことばがある。「情報社会にあっては、だれもなにも考えようとしない。われわれは紙を追放しようというが、じっさいに追放したのは紙だけでなく、考えることだ」。もし本などに使われている文字やテキストが、静かに思いを巡らせ、ときに深く考えてみるための道具であるとするなら、インターネットに代表される情報化社会は、空虚な空洞を抱え込んでいるだけということもできる。

そうならないために、せめて個人のブログでは、互いに思考を重ね、互いに新しい発見にいたる「知の拡大」を図るメディアでありたい。