負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

だれも読もうともしない本がなぜ世の中にある?

2006年10月05日 | Weblog
フランスの19世紀に生きたマラルメという詩人がいた。象徴主義と呼ばれた一派の芸術運動の中心人物だった。日本でも明治時代、上田敏辺りから紹介されているが、おそらくほとんどの人がじっくり読んだこともなかろう。仏文学の専門家でさえ、原文で作品を読み通したのは、ごく一握りの人たちだろう。

本人は祖父の代からつづいた「登記管理局」の役人の家に生まれ、しごく平凡な寄宿学校での少年時代を送った。物心ついたころ、詩人になると決意し、中学校の先生になった。英語の先生を目指したから、イギリスにちょっと留学した。ブザンソン、アヴィニョン、パリと凡庸な教師生活は生涯続いている。

幾篇かの詩を発表し、一部の人に尊敬され、木曜会という芸術家の集まりを主宰した。パリ・ローマ街にそのアパルトマンがいまも残っている。死の前年に『骰子一擲』(さいころの一振りという意味)という詩をある雑誌に発表した。見開き20ページの紙面に一見無秩序に詩語が配置されている。波濤の海域に揺れ動く難破船の様子から始まるが、一読しても即座に意味がわからない。それぞれの言葉が呼応しながら、奇妙な響き合いをしている。

これを本にするため校正刷りに手を入れる途中、56年の生涯を閉じた。娘婿の力で死後に出版されたこの本は、はるか後に日本語訳が試みられているが、日本の仏文学者といえども精読し、理解したのは百人もいないだろう。一般の読者にいったっては絶望的である。これほど読まれない本がなぜ存在し、生き延びているのか、不思議なことが世の中にはあるものだ。

「世界は一冊の書物に到達するために存在する」といった彼が残したこの本、いくら本好きでもその謎を解き明かしてくれる人は少ない。読まれない「本」って、いったい何なんですかね?