伊藤左千夫の『野菊の墓』で思い出した。私があのような物語を好きになれない理由の根っ子には「男の身勝手」がある。男の行動は、まずはじめに花を差し出して、女性の共感を引き出すが、その後は何かことが発生するまで、あちこち余所見ばかり。民子が死んで初めて、お墓に参り、野菊で飾るくらいが関の山である。
同じようなことを高村光太郎の『千恵子抄』にも感じた。千恵子が好きな絵を描けないとき、心の病に突き進むまで苦しんでいるとき、光太郎は大したことを千恵子にしてやることがない。彼女が亡くなったあとになって、詩を書き、悲しさに浸る。ことばの花を千恵子の墓に飾ったのと同じである。
男とは女に対して、結局は身勝手なのである。そんな悲しい作品をかつて女性自身が好んで読んだのは、どんな心境だったのだろうか。ぜひ女性に訊いてみたい。男は自分の身勝手を再確認することになるから、あんな女々しい話など読めるかと嘯くことになる。私は男として恥ずかしいが、それに気付くのはずっと後になってからである。
同じようなことを高村光太郎の『千恵子抄』にも感じた。千恵子が好きな絵を描けないとき、心の病に突き進むまで苦しんでいるとき、光太郎は大したことを千恵子にしてやることがない。彼女が亡くなったあとになって、詩を書き、悲しさに浸る。ことばの花を千恵子の墓に飾ったのと同じである。
男とは女に対して、結局は身勝手なのである。そんな悲しい作品をかつて女性自身が好んで読んだのは、どんな心境だったのだろうか。ぜひ女性に訊いてみたい。男は自分の身勝手を再確認することになるから、あんな女々しい話など読めるかと嘯くことになる。私は男として恥ずかしいが、それに気付くのはずっと後になってからである。
結果に拘る生き物と、過程に拘る生き物を同じ檻の中にいれて、理解して解決しようなんて思ったが最後、「私の気持ちなんて、あなたにはわからない」と、放り出されるのが関の山です。生理も違えば、考え方も異なる。身勝手はお互い様。振り回される男にも葛藤は存在するはず。
男と女の葛藤を解決しようとしても、交差することのない平行線上で争っているようなもので、解決を求めて闇雲に突っ走るよりも、ただそういう生き物の存在を自覚するだけでいいのかもしれません。
女性の心理、ひとつ知るだけでこちらの精神が破壊されそうで極力避けますが、これこそ、男の身勝手と呼ぶべきかもしれません。
それは『女は男の内面をありのままに映し出す鏡のようだ』という事.....。それは女を愛し、いたわる気持ちで接すると、相手も同じように進化するという意味でです。
それは自然環境にも似ていて、破壊的な行為は天罰のごとく即自らに返ってくるのです。
ただし例外はあって、こちらがいくら愛してもすべて仇で返されることもある事もあるでしょう。
しかしその場合でも、私の反省すべき点は自らの未熟さであって相手を批判しても始まらないと思っています。
やはりいい女と出会うには自分が男を磨かないとなあ....。
と思う今日この頃......ってオレ妻子持ちじゃん(^^);
光太郎は千恵子に何もしなかったのか。もしかしたら、光太郎が不器用に差し出した手を、千恵子が退けてしまったことがあるのではないか。その一度だけの拒否でも、鎧で固めているだけで実は軟弱な男が傷つくことだってあるでしょう。
つまりは、我々常に追いかけっこをしていないといけない宿命を死ぬまで背負っているということではないかと…。日々是精進。もちろん、鏡に取り囲まれて毎日鍛えておられる彩木さんには到底及びませんが…。