負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

菊花酒をめぐる作り方のあれこれだが・・・

2006年10月15日 | Weblog
日本列島のどこでも米の収穫が終わり、農作業も一息ついたところ。酒造好適米の収穫や精米も終わり、酒どころでは杜氏の人々が結集する様子が伝えられる。いよいよ菊酒・菊花酒の季節到来と気ばかりあせるが、フットワークを奪われた今の身は菊一輪もたやすく入手できない。仕方がないので、耳学問というあまり感心しない情報だけで今回はご容赦いただきたい。

もともと菊酒は野生の菊で甘味のある「甘菊」が用いられ、これを煎じて甘菊汁を作り、麹と米とに混ぜてお酒に醸成するという。こうなるともう酒造家の専門分野で素人にはどうしようもない。どこかでそんな試みをしている酒造家から菊酒を入手するほかない。

ちなみに加賀の白山の麓で知られた酒蔵で修行した人のことばでは、ちょうど酒作りに入る季節、白山に菊が咲き誇り、その湧水を使ったことから菊の一字が、イメージとしてブランドに付いたようで、直接、菊の花を用いたわけではなかったようだ。

次善の策であるもうひとつの菊酒を作ることが残された。そのために、ちょっと離れた薬科大学の薬草園を訪ね、いまを盛りの白色の薬用菊、黄色の食用菊を入手する予定だった。薬草園に入り、ましてわずかであれ、その花を摘むのは、至難の業である。手続きがすごく面倒なのだ。毒になる薬草もあるから管理がきわめて厳しい。

そのために走り回る脚力は、いまはない。かといって手近な花屋へ行って該当する菊花を入手するのも面倒。人工栽培された飾り物の大きな菊がのさばっていて、あの大輪ではどんな菊酒ができるか知れたものではない。つい父親の遺骸に飾った菊が思い出されて、躊躇してしまう。

次善の菊酒とは、花びらをしごいて酒に浸しておき、時間をおいて飲む方法である。あるいは花びらを湯通しし、乾燥させて保存したものをお湯で飲む方法を踏襲して、菊酒にしてもいい。これならなんとかできると思ったが、身動きが苦しいから、やはり到達できない……。

以上はすべて実践できないいいわけだが、もし環境が整っている人がいたら、実験してみていただきたい。もうひとつ菊酒の効能であるが、生薬学の専門家によると、マウスによる実験では、体温低下、解熱、毛細血管の抵抗性を増加する結果が出たそうだ。漢方薬では、解熱、解毒、鎮痛、消炎、血圧降下剤として用いられているのも、それなりの理由があるらしい。

喧嘩ありお笑いありの国会中継って楽しいですよ

2006年10月14日 | Weblog
国会中継がインターネットでストリーミング配信されるようになってから、国会討論の様子を見るのが大いなる楽しみになった。以前ならTVやラジオで中継されていたが、録画・録音でもしておかないかぎり、つい見逃してしまう。

それがインターネットのおかげで、好きな時間に質疑応答を見聞きできるようになった。馴れ合いの質疑応答などは、飛ばしながら、これは面白そうだと思う質問と答弁だけをじっくり鑑賞する。TVや新聞を通さない第一次資料だから、迫力があり、真相が仄見えてくる。

例の民主党代表による偽メール事件のころ、前原とかいう「真似した整形塾」卒業生や永田某が見せた力みだけの空疎なことば、狂牛病国会で現地の工場を視察した議員によるきわめて具体的なレポートなど、なかなか鑑賞に堪える喜劇だった。

田中真紀子が安部首相と対決した今国会の質疑も、見なければ、その実態がわからなかっただろう。寸鉄人を刺すとかいわれる彼女の短評は、断片的に取り上げるTVでは大向こうをうならせるが、「子供がおとなの靴をはいて、外に出て」に始まった今回の発言を聞くと、それほどうまいなあと感心してばかりはいられない。

舌鋒鋭い彼女の批判は、安部が幹事長で参加した北京での日朝会談に触れ、外交とはあんなものではない、なぜその場にとどまって徹底的に交渉を続けなかったのかと非難の嵐。彼女のことばの裏には父親の日中会談のイメージが下敷きになり、父親や大平が果たした死に物狂いの外交を讃えるふうだった。

彼女には自らの経験を唯一のよりどころとして、一般論化するところがある。それだけに視野が狭く発言や行動に柔軟性や広がりが欠ける。わが家ではこうだから、あなたもこうなさいよといった主婦的な色合いが濃くなる。外務省でなくなった宝石に右往左往し、官僚を走り回らせるように、いかにも主婦むき出しの態度を持ち込む。

思えば、短絡的ことばを連発した小泉のパフォーマンスに似ているのだ。ふたりは意外に似たもの同士だった。自分の理屈だけを押し付ける子供の喧嘩である。似たもの同士はどこかで齟齬をきたすから、スカートを踏んで、喧嘩別れしただけだったのではないか。彼女もまた客観的に見て重要なポジションには向かない。

愚にもつかない芸人のTV番組に現を抜かすくらいなら、寝転がってノートパソコンで国会中継を見ることにしよう。喧嘩あり、お笑いあり、それも真に迫っているから、心から笑ったり怒ったりできるし、なにより政治家や政党を見極めることができる。

ついに出た「お酒の飲みすぎに注意」のラベル

2006年10月13日 | Weblog
煙草の喫み過ぎに注意の文字が踊って、ついにはいたるところ禁煙の強要がいきわたったのに、酒に関しては保険所くらいで、ほかでは一言もなかった。これだけ酒を飲んで事故を起こす報道がつづいても、禁酒のキャンペーンが起きる様子もなかった。どこか片手落ちの印象だった。

「アルコールにより飲酒への依存が生じます」とか「飲酒はあなたの脳卒中や肝炎の危険性を高めます」とか「飲酒は人を殺す危険性があります」とかいった警告は、お酒の容器のどこにも印刷される様子がなかった。

ところがついに出たのである。九州平戸の日本酒メーカーが、自社製品のラベルに飲みすぎに注意の文字を入れ始めた。煙草にくらべれば、酒造業や酒類販売店や飲み屋や、ひいては税金を含む日本経済に煙草の比ではない大きい影響を及ぼすせいだろうか、どこからも出なかった警告第1号である。

しかし、結局、それ以上波及することはなく、どこかでストップがかかるのだろう。煙草は喫むが、酒は飲まない人にとっては、割り切れないことだろう。禁煙を叫ぶ全世界の健康主義者は、それほど心からの健康志向というのでもなさそうである。それとも酒は「命の水」なのだろうか。酒で晴らす憂さが多い時代なのだろうか。(イラストは健康保険組合から)

16世紀イタリアの「好色文学」と娼婦の勧め

2006年10月12日 | Weblog
こういうものに近代もなにもあったものじゃないが、まあ、近代のポルノグラフィ第一作として歴史に名を残す名作がある。作者はピエトロ・アレッティーノ、作品は『ラッジョナメンティ』(おしゃべり)。16歳になった娘の行く末を心配する母親と女友達のおしゃべり3話で構成されている。

ずいぶん前、翻訳も出たことだから、お読みの人も多いだろう。私は伊語版、英訳版まで手元において密かに偏愛している。『デカメロン』よりはるかに多彩な恋を展開する筆力、リアリズムに徹した生活感あふれる描写、読者を飽きさせない筋運びのすばやさ、作者の的確な人間洞察など、並みの好色物ではない。

たとえば、こんなしゃれた科白がある。「女の純潔なんてクリスタルの水差しのようなものなのよ。あたしたちがそれをどんなに注意して握っていても、いつかうっかりしたときに、それは手から滑り落ちて粉々に砕けてしまうものなのよ」。女性ならだれだって実感だろう。

娘の生きる道は3つあった。修道女、人妻、高級娼婦である。ふたりの女性が導き出した結論は、娘は高級娼婦にすべきということ。理由はこうである。「修道女は誓いを裏切るし、人妻は婚姻の秘蹟を破るけど、すくなくとも娼婦は修道院も良人も辱めたりしないもの」。

普通ならルネサンス期の正常な女の生き方と思われる修道女や人妻なのに、人々が正常と思い込む神のしもべや結婚という生き方には、数おおくの嘘と裏切りがあるという。しかし悪徳とされる娼婦の生きざまは、人も神も辱めることがない。虚飾を取り払った人間として、筋の通った正論であると思いませんか。

遊女といっても、明治時代にはこんなふうだった

2006年10月11日 | Weblog
遊女といえば、どこか優雅な面影を残した遊び女の印象がある。江戸時代の吉原は、文化の中心のひとつだともいわれている。だが、それだけで浮かれるのは、どこか片手落ちである。明治時代を東京で生きた山室軍平は、明治期の公娼廃止運動に身を挺した人として知られている。著書のなかで当時の「醜業婦」の実態を次のように分類していた(『社会廓清論』)。

第一、 公娼。すなわち娼妓である。
第二、 私娼、この内には少なくとも、下の五種類の醜業婦を含む。
(イ)芸妓
(ロ)酌婦
(ハ)高等売淫婦
(ニ)下等売淫婦
(ホ)妾

 芸妓や酌婦は単に芸を売り、酒の酌をするだけでないのは「誰知らぬ者なき事実である」と山室は書き添えている。むろん芸を売り、酌をするだけの芸妓や酌婦がいなかったわけではなかろう。いずれにしても生まれた家庭が富や社会的地位に恵まれない娘たちは、山室軍平のような社会運動が起きるほど、明治時代(だけではないが)の社会の底辺でままならない生活を送っていた。

「お茶を挽く」という意味の由来について

2006年10月10日 | Weblog
このブログにコメントをいただいた彩木さんとの間に「お茶を挽く」話があった。調べればすぐわかるといったが、肝心の資料が埋没状態。ついさっきふと目に留まる別の薄い本があった。ポピュラーな『茶の文化史』(村井康彦)。以下のような記述があったので、取り急ぎお知らせまで。

●摘んだ茶葉を甑(こしき)で蒸す
●杵と臼で搗(ひ)き、細かにする(私注:粉末状態ではない)
●搗いた茶葉を鉄製の型にいれ、団茶にする
●団茶を乾燥させ、孔をあけてくしに通し、焙(ほいろ)であぶる
●団茶を火にあぶり、ふくらませる
●木製の碾(ひきうす)で粉末にし、篩(ふるい)にかけて蓋ものに納める
●お湯に少量の塩を入れ、茶匙で粉末を入れる
●表面に浮いた粉末などを掬って茶碗にいれ、湯とともに飲む

茶を挽くというのは、団茶を「木製の碾(ひきうす)で粉末に」する段階。「団茶」は平らな団子状に固めたもので、この状態でお茶は保存されていた。中国の田舎でも日本の田舎でもまだ残っているところがあって、四国の山中では、山仕事のときにお湯を沸かした薬缶に放り込んで飲んでいた。お茶は元来、薬として飲まれていたから、木製の碾は、古くは薬研のようなものだったかもしれない。

緑茶が江戸時代にできるまで、客のつかなかった遊女はお茶を挽く下働きをさせられたのだろう。秋深更 つい田舎の親を想いつつ、挽いていたのだろうか。

萩の花くれぐれまでもありつるが・・・

2006年10月09日 | Weblog
愁風驟雨一過して、東京は7日も8日も好天に恵まれた。東京湾から金色の巨大な満月がゆるやかに昇った。中天に達して、雲ひとつない空に銀色の光が溢れる。高い中空の部屋だから、広い窓越しに月光が惜しみなく注ぐ。窓の外は限りない空だけである。庭も萩の花もない。仕方なく、源実朝の歌を思い出した。

萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはなかさ

月の光は色彩を消してしまう。夕方までは咲いて見えた萩の花が、月が出て見ると、その光のなかで姿を消し去っている。22歳で刺殺された鎌倉の青年将軍、実朝の透徹した虚無の心象である。何も見えない萩を詠んだ秀歌である。

一方、やはり20代の泉鏡花は「薬草取」と題した名品で、富山と石川の県境にそびえる医王山(いおうぜん)の「美女ケ原」に花を描いた。「月影に色の紅(くれない)な花」である。月光に赤い花が赤く見えるはずがないのに。

実朝と鏡花、ふたりの若者が月下に描く花の対照は何だったのか。一方は消え果てた花、一方は紅の花。ことばと想像力に託す人の心の測りがたさ。この秋の満月は、月影だけの中空にふたつの花を見せてくれた。

総理大臣に電子メールを送ることはできますか?

2006年10月07日 | Weblog
読者からの素朴な疑問があった。ホワイトハウスでは大統領に電子メールを送り、返事がもらえるというが、日本の首相はどうですか? 首相官邸はkantei.go.jpというアドレスを取得し、すでに今年6月からインターネットとの接続を開始している。

ただ、メールを送るとなると、ユーザー名まで指定しなければならない。ちなみにアメリカの大統領はpresident@whitehouse.gov。そこで、首相官邸に電話をかけ「インターネットで総理大臣に電子メールを送りたいが、メールアドレスを教えていただけませんか」と質問した。

ところが、「インターネットって何ですか、ダイレクトメールを送るのですか」とたらい回しされ、やっと内閣参事官で詳しい人に話を聞けた。残念ながら、現在はとりあえずインターネット接続し、研究や調査を行っている段階、電子メールのやりとりはできないとか。一部で噂になった大統領と首相が電子メールを交換したということについても、元首どうしの電子メール交換がどのような外交上の扱いになるのか、調べている段階だという。

もうお気付きだろう。1994年9月に創刊した「インターネットマガジン」に寄せられた「インターネット素朴な疑問、一問一答」の1駒である。ここでいう大統領はクリントン、首相は羽田孜。最近、PDFでその創刊号が配布された。わずか12年前の話である。

最近の首相になった安部は、これはごく最近、「Winny」を使わないのが情報漏えいを根絶する唯一の方法と見当違いのことをのたまわった。東大の助手だった開発者は告発され、裁判にかけられている。

今回の内閣と首相官邸で、IT関連は、その他残りの雑用拝命大臣だか補佐官だかに十把ひとからげ押し付けられたひとつに過ぎない。政治家のコンピュータに関する知識や認識は、その昔からこの程度である。

デファクトスタンダードとフォーラムスタンダード

2006年10月06日 | Weblog
毎週木曜日の朝8:00-8:15のTBSラジオで月尾嘉男(つきおよしお)という人が話をしている。工学系の名誉教授だから、技術系の話が多い。何でもわかったような話しぶりの森本哲郎もこの人相手のときだけは、しどろもどろである。

つい最近、工業製品の「デファクト・スタンダード」と「フォーラム・スタンダード」のことを話していた。皆さんご存知のISO以外の「国際標準」である。前者は、企業が競合し、勝利した結果、事実上の標準になったもので、WinOSなどが代表例。後者は企業間で話し合って決める標準。

ところがフォーラム・スタンダードが必ずしも即座に決まるわけではない。直近の事例はHDDVDとブルーレイディスク。ついに2つのグループに別れ、見切り発車してしまった。消費者そこのけお馬が通るである。たぶん旧弊なヨーロッパ人だったら、そんな製品に見向きもしないだろう。

ところが新し物好きのわれわれ日本人ときたら、即座に飛びついてしまう。大型家電店ではデモの真っ最中である。じっくりと構えて古い製品を使い続け、生活必需品を選ぶことを忘れてしまった。「もったいない」も遠くの外国人に教えられる国民である。

わたしは大型液晶TVもプラズマTVも見向きもせずに、地上デジタル放送に一本化されるまえの最後のTVをもう10年以上使っている。それ以前に、TV番組自体がつまらないから、電源を入れることも少ない。一番古いISOに甘んじているのは、中高年のせいでしょうかね。

だれも読もうともしない本がなぜ世の中にある?

2006年10月05日 | Weblog
フランスの19世紀に生きたマラルメという詩人がいた。象徴主義と呼ばれた一派の芸術運動の中心人物だった。日本でも明治時代、上田敏辺りから紹介されているが、おそらくほとんどの人がじっくり読んだこともなかろう。仏文学の専門家でさえ、原文で作品を読み通したのは、ごく一握りの人たちだろう。

本人は祖父の代からつづいた「登記管理局」の役人の家に生まれ、しごく平凡な寄宿学校での少年時代を送った。物心ついたころ、詩人になると決意し、中学校の先生になった。英語の先生を目指したから、イギリスにちょっと留学した。ブザンソン、アヴィニョン、パリと凡庸な教師生活は生涯続いている。

幾篇かの詩を発表し、一部の人に尊敬され、木曜会という芸術家の集まりを主宰した。パリ・ローマ街にそのアパルトマンがいまも残っている。死の前年に『骰子一擲』(さいころの一振りという意味)という詩をある雑誌に発表した。見開き20ページの紙面に一見無秩序に詩語が配置されている。波濤の海域に揺れ動く難破船の様子から始まるが、一読しても即座に意味がわからない。それぞれの言葉が呼応しながら、奇妙な響き合いをしている。

これを本にするため校正刷りに手を入れる途中、56年の生涯を閉じた。娘婿の力で死後に出版されたこの本は、はるか後に日本語訳が試みられているが、日本の仏文学者といえども精読し、理解したのは百人もいないだろう。一般の読者にいったっては絶望的である。これほど読まれない本がなぜ存在し、生き延びているのか、不思議なことが世の中にはあるものだ。

「世界は一冊の書物に到達するために存在する」といった彼が残したこの本、いくら本好きでもその謎を解き明かしてくれる人は少ない。読まれない「本」って、いったい何なんですかね?

翻訳のことばにこめた先人たちの心意気(2)

2006年10月04日 | Weblog
生田耕作先生は京都大学のフランス語の先生だった。すでにマンディアルグなどの翻訳を数多く出していた。その先生が、同じゴシック小説に入る18世紀末の作品『ヴァテック』に興味を寄せていた。作者はイギリスの貴族だったが、語学の才能を生かしてフランス語で書いて発表したから、フランス語の先生が興味を持ってもふしぎはない。

本来なら、自分が翻訳をやろうと思い立つはずである。ところが先生は昭和の初めに矢野目源一という人が訳した作品があって、優れているから自分で新訳することをあえてしようとしなかった。そのかわり部分的に語学上おかしいところだけを修正し、「補訳者」として遠慮深く後ろに控えた。実際はかなり翻訳がよくなり、作品の味わいを深めることになった。

たかが翻訳と一般の読者は思うだろう。誰が訳したっていいじゃないかと考えるかもしれない。しかしことばというものは、そんな安直な考えで読み、書くものではない。もっと心して接する価値があるものなのだ。それを知っていた生田先生だけに、ことばにこめた心意気は人とちがっていたといまでも思っている――というだけの話である。(写真は作者が建てて住んだフォントヒルの僧院)

翻訳のことばにこめた先人たちの心意気(1)

2006年10月03日 | Weblog
18世紀末にイギリスで流行したゴシック小説と呼ばれる一群の作品がある。相当数が翻訳されているが、おそらくひもといた日本人は千人いるかどうか。一般の人には地味で、縁の薄い作品たちである。といっても、後の探偵小説、幻想小説、怪奇小説などの淵源ということになって、文学史的にはよく知られている。

そんな講釈はどうでもいい。こうした売れない、古びた本を日本に紹介する先人たちが、いかにことばに心をこめたかだけをお伝えしておきたい。まず一人は、『オトラント城奇譚』を訳した平井程一。ハーンの『怪談』『吸血鬼ドラキュラ』などの訳者として知られている。

平井翁は、60代なってこの翻訳を思い立った。もともと怪談好きだったから、その近代的な始まりとされる作品に興味を持っっていたのだろう。まだ古い時代、中世のイタリア・オートラントを舞台にした古色蒼然の物語だから、あろうことか江戸時代の戯作者の擬古文を生かした訳文を作り上げた。

はじめは抵抗感があった。読者が減ると思ったが、平井翁は頑として聞き入れなかった。出版した本は数百部しか売れなかった。名訳だという人もいたが、古くて読みづらいという人もいた。ただひとつ、この先人の心意気だけは、忘れることができない。ことばにそれだけ気を遣う訳者がいなくなっただけに、ときおり思い出す――というだけの話である。

コンピュータ通信は「知の拡大」のために始まった

2006年10月01日 | Weblog
インターネットが産声をあげたのは、1960年代、エンゲルバートが考えた「人類の知を拡大するための概念図」が、米国防総省の高等研究計画局(ARPA)の資金をえて「ARPANet」としてスタートした。はじめは、国防総省と数少ない大学の研究機関を結んだだけだった。目的は国防に関する情報の共有・分散で、文字どおり「知の拡大」を図るとともに、冷戦時代の仮想敵国による攻撃への備えでもあった。

1980年代年代になってから、ネットワークは一般の大学、研究機関、企業間へ広がっている。日本では、1984年、UNIXコンピュータ間の接続実験「JUNET」が慶應義塾大学、東京工業大学、東京大学の間で始まった。インターネットはすでに初期の段階から、国務機関という権力側の情報管理やアカデミズムという別種のオーソリティ(権威)に深く結びついていた。

拡大する「知」は、将来のインターネットが孕む性格の一端をすでにこのとき垣間見せている。その「性格」は、私たちがありがたがっている今日のインターネットに見る情報の「押し付け」「垂れ流し」である。企業なら売るための情報、個人なら身の回りの情報と感想、官公庁なら都合のいいデータのおすそ分け、電子メールならボックスにあふれる製品PRと出会い系の迷惑メールである。

マイケル・クライトンのSFに登場する数学者が口にした何気ないことばがある。「情報社会にあっては、だれもなにも考えようとしない。われわれは紙を追放しようというが、じっさいに追放したのは紙だけでなく、考えることだ」。もし本などに使われている文字やテキストが、静かに思いを巡らせ、ときに深く考えてみるための道具であるとするなら、インターネットに代表される情報化社会は、空虚な空洞を抱え込んでいるだけということもできる。

そうならないために、せめて個人のブログでは、互いに思考を重ね、互いに新しい発見にいたる「知の拡大」を図るメディアでありたい。