犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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初心忘れたよ

2017年01月10日 | 書の道は
毛筆を始めた時に、何を考えていたんだっけ。
たった3ヶ月前のことなのに、もう忘れた。

10月12日のブログの中の一節に、私の考えが表れている。
「熨斗袋に表書きするとか、芳名帳に名前を書くとか、
筆でなくとも、何かの書類にサインするとか、送り状を書くとか」
そういったことを、ちょっと形の良い字で書いてみせたい。

そういうつもりで小筆を始めたはずなのに、
今、なぜか、木簡の隷書、という若干マニアックな興味を追究している。
どうしてこうなっちゃったのかしら。

楷書、行書、草書を数日ずつ書いてみて、さらに遡る必要を感じ、
隷書、篆書から、金文や甲骨文字もちょっと書いてみた。
石碑の隷書を臨書する中で、これは毛筆だったらどうなのか、という疑問を抱いた。
すると、木簡が発掘されていることがわかった。
いまここ。

さて、書道と言って書道をやっていると、どうも目標は作品を書くことのようだ。
かっこよく書く、美しく書く、書道は芸術なのだ。
しかし、私が毛筆を始めたのは、実用が目的だった。
書道を始めた、と言わないのは、先生について教わっていないことと、
作品を書く芸術を目指していないことが理由だ。

じゃあ、木簡はどうなのか。
書聖王羲之はなんのために書いていたのか。
古代中国で千字文を習っていた人たちは、なんのために書いていたのか。
書の美って何か。良い字って何か。

木簡には何が書いてあるか、誰が書いたものか、ということをまず見よう。
いくつかの用途があるようだ。
荷札のようなもの、通行手形、手紙や通信文、記録など。
主に、役所がらみのものが多い。
書いているのは役人だ。

堂々と書く隷書からスラスラと書く草書が発達していく過程が木簡に見られるのも、
小役人が仕事としてちゃっちゃと書いてしまいたいからだ。

それでも、書法の歴史の空白を埋める資料として、木簡は貴重である。
20世紀に至って発掘されて、書道界は動いた。
それはわかる。
でも、役人の走り書きを現代の書道のお手本にしているのって、
なんだか妙な気がする。

木簡独特の筆法は、魅力的だ。
だから、多くの書家が研究してきた。
書法を解説する本はいくつも出ている。

鶴木大寿『木簡の書法』ではこう言っている。
「西域辺境の警備の任にあたった兵士たちの率意の書なのであり、
全く実用に供した書というべきである。しかし、実用の書といいながら
なかなかおもしろく、学ぶに足るいろいろな要素のあることは
否定できないのである。木簡のごときは名もない人の粗略な書だから、
その下手な書は何も学ぶに足りないという考え方には、
私は賛意を表することができない。」

先日もとりあげたが、木簡に字を練習したものが多く発掘されている。
右払いなど、同じ字を繰り返し繰り返し書いている。
木簡は、練習に書いた面は削り取ってまた書く。
その削りかすも数限りなく出土しているそうだ。

ではこれは、美のために、芸術のために練習していたのかと言ったら、
違うだろう。
でも、かっこいい字を書きたいためだ、と私は思っていた。

冨谷至『木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版』には、
ここに対する厳しい疑問があげられている。
木簡は芸術ではない。役人の走り書きだ。
だから、練習しているのも、字を美しく書くためではない。

繰り返し練習しているのは、字に威厳を持たせるためではないか、
と冨谷氏は言うのだ。
なるほど、法律や、裁判の結果などを書くのに、
へにゃらけた字では威厳に欠ける。
読んだ者が「ははーー」とかしこまり従うような字でなければならない。

木簡の字に習って書道作品を書く者は、
こういう疑問にちょいと返す言葉を準備しておかねばならないだろう。
冨谷氏は書道家ではない。
そもそも見方が違うだけなのかもしれない。

石碑では見られなかった筆の使いっぷりが見られる木簡は、
やっぱり習うにおもしろい、興味の尽きないお手本になると思う。

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