[あらまし] 同居母85歳パーキンソン病要介護2認知症状少々。
母のパーキンソン病が分かったのは、10年ほど前のことだった。
私は当時、鍼灸学校の2年生だった。
内科学の中でパーキンソン病が出てきて、
列記してある特徴的な症状がいちいち母に当てはまることに気付いた。
その頃、母は変形性股関節症で大学病院に通っていた。
私はパーキンソン病を改善したら股関節の痛みも改善するのではないか、
と考えた。
通っていた接骨院の先生や、学校附属の接骨院の先生も、
筋緊張を取れば、手術の必要は無い、という意見だった。
担当の外科医は、形質的に関節に変形が有るのだから手術する、
というだけだった。
母自身はケンイに弱く、医療は現代医学しか知らない人なので、
医師が手術と言えば手術なのだ、と丸呑みだった。
左股関節を人工関節に全置換した。
結果、左足のほうが1㎝あまり長いような状態になったが、
それは手術のせいではない、ということでリハビリの日々。
手術前の痛みとはまた別の痛みがつきまとうことになった。
それもやはり筋緊張なのだから、私からすればアホクサ、という気分だった。
さて、母に神経内科を受診するようにしつこく言ったら、
手術後になってやっと相談した、ただし執刀医に。
執刀医は自分が関わっている別の病院の内科を紹介した。
リハビリもそこに通っていた。
パーキンソン病の診断が下って薬が処方された。
私が傍から見て気になっていた症状のうち、
仮面様顔貌はずいぶん改善した。
何を話しても能面のような表情で無反応だったのが、
表情が戻り、話がしやすくなった。のは良かった。
本人は自分の顔は見えない。
手の安静時震顫(しんせん。ふるえ)がつきまとうことのほうが
よっぽど気にかかる。
それでも、世話になっている医者に不満を持って
別の医者に乗り換える、ということは悪いことのように感じてしまう。
今はセカンドオピニオンというものが有るのだ、という説明をしても、
医師の言うことには従うものだ、という意識が有る。
医療界はこういったパターナリズムから脱するために
改革を進めている最中だったわけだが、
高齢の患者側自体にそのパターナリズムはしみついている。
ことに母は、親が明治生まれの軍人である。
父権主義が家庭の根幹であって、その中で護られて育っている。
1年半、同じ処方で埒が明かないのだから、他の医者を探そう、
と説得した。
探してみたら、市内のしかも家から2㎞あまりという近い所に、
パーキンソン病を専門とする神経内科医がクリニックをやっていることがわかった。
受付の時点でまず断られた。
紹介状は無いのか。
今後ここに通い続ける気は有るのか。
ちょっととっつきにくいとは感じたが、食い付いて、診察を受けた。
今までどこの何という医師にかかっていたか、聞かれて答えた。
「知りませんね。神経内科の専門医ではないでしょう。
適切な治療ができるとは思えませんね。」
という言葉の中に、ちょっと違和感も有ったが、間違ってはいない。
そして、今までの薬の説明と、これからの薬の説明を受けた。
ちょうどその月に、府中の保健所でパーキンソン病についての講座で話す、
というので、出向いて行った。
100人くらいの人が集まっていただろうか。
薬の副作用でパーキンソン病による震顫とはまた別の震えが続いている人なども来ていた。
処方が変わって、症状はあれこれ改善した。
副作用が出て、薬の種類を変えることも何度も有った。
「何か問題が有ったらいつでも電話ください。」
と、携帯電話の番号を教えてくれた。
心強い。
これは診療とは関係の無いことだが、
通い始めた頃の先生は、かなり腹が出ていた。
数年後、見る見る痩せていった。
病気じゃあるまいか、などと母と言い合ったものだ。
が、ある日、何かの拍子に先生が自分から話した。
ダイエットしたという。
ちょうど私も食事を変えて3ヶ月で12㎏落としたところだった。
「お痩せになりましたよね。」と言い合った。
聞けば、先生は運動で落としたらしい。
尊敬する。
※
その後、雑誌やテレビに出たりと忙しくなったせいもあるのか、
先生の胴回りにはまたこってりと脂肪が乗ってきている。
私もだけど。
そして、閉院時間に駆け込んだら、たいへんご機嫌斜めであった。
訪問診療を勧められた。
そうしよう。
長らくお世話になりました。
母のパーキンソン病が分かったのは、10年ほど前のことだった。
私は当時、鍼灸学校の2年生だった。
内科学の中でパーキンソン病が出てきて、
列記してある特徴的な症状がいちいち母に当てはまることに気付いた。
その頃、母は変形性股関節症で大学病院に通っていた。
私はパーキンソン病を改善したら股関節の痛みも改善するのではないか、
と考えた。
通っていた接骨院の先生や、学校附属の接骨院の先生も、
筋緊張を取れば、手術の必要は無い、という意見だった。
担当の外科医は、形質的に関節に変形が有るのだから手術する、
というだけだった。
母自身はケンイに弱く、医療は現代医学しか知らない人なので、
医師が手術と言えば手術なのだ、と丸呑みだった。
左股関節を人工関節に全置換した。
結果、左足のほうが1㎝あまり長いような状態になったが、
それは手術のせいではない、ということでリハビリの日々。
手術前の痛みとはまた別の痛みがつきまとうことになった。
それもやはり筋緊張なのだから、私からすればアホクサ、という気分だった。
さて、母に神経内科を受診するようにしつこく言ったら、
手術後になってやっと相談した、ただし執刀医に。
執刀医は自分が関わっている別の病院の内科を紹介した。
リハビリもそこに通っていた。
パーキンソン病の診断が下って薬が処方された。
私が傍から見て気になっていた症状のうち、
仮面様顔貌はずいぶん改善した。
何を話しても能面のような表情で無反応だったのが、
表情が戻り、話がしやすくなった。のは良かった。
本人は自分の顔は見えない。
手の安静時震顫(しんせん。ふるえ)がつきまとうことのほうが
よっぽど気にかかる。
それでも、世話になっている医者に不満を持って
別の医者に乗り換える、ということは悪いことのように感じてしまう。
今はセカンドオピニオンというものが有るのだ、という説明をしても、
医師の言うことには従うものだ、という意識が有る。
医療界はこういったパターナリズムから脱するために
改革を進めている最中だったわけだが、
高齢の患者側自体にそのパターナリズムはしみついている。
ことに母は、親が明治生まれの軍人である。
父権主義が家庭の根幹であって、その中で護られて育っている。
1年半、同じ処方で埒が明かないのだから、他の医者を探そう、
と説得した。
探してみたら、市内のしかも家から2㎞あまりという近い所に、
パーキンソン病を専門とする神経内科医がクリニックをやっていることがわかった。
受付の時点でまず断られた。
紹介状は無いのか。
今後ここに通い続ける気は有るのか。
ちょっととっつきにくいとは感じたが、食い付いて、診察を受けた。
今までどこの何という医師にかかっていたか、聞かれて答えた。
「知りませんね。神経内科の専門医ではないでしょう。
適切な治療ができるとは思えませんね。」
という言葉の中に、ちょっと違和感も有ったが、間違ってはいない。
そして、今までの薬の説明と、これからの薬の説明を受けた。
ちょうどその月に、府中の保健所でパーキンソン病についての講座で話す、
というので、出向いて行った。
100人くらいの人が集まっていただろうか。
薬の副作用でパーキンソン病による震顫とはまた別の震えが続いている人なども来ていた。
処方が変わって、症状はあれこれ改善した。
副作用が出て、薬の種類を変えることも何度も有った。
「何か問題が有ったらいつでも電話ください。」
と、携帯電話の番号を教えてくれた。
心強い。
これは診療とは関係の無いことだが、
通い始めた頃の先生は、かなり腹が出ていた。
数年後、見る見る痩せていった。
病気じゃあるまいか、などと母と言い合ったものだ。
が、ある日、何かの拍子に先生が自分から話した。
ダイエットしたという。
ちょうど私も食事を変えて3ヶ月で12㎏落としたところだった。
「お痩せになりましたよね。」と言い合った。
聞けば、先生は運動で落としたらしい。
尊敬する。
※
その後、雑誌やテレビに出たりと忙しくなったせいもあるのか、
先生の胴回りにはまたこってりと脂肪が乗ってきている。
私もだけど。
そして、閉院時間に駆け込んだら、たいへんご機嫌斜めであった。
訪問診療を勧められた。
そうしよう。
長らくお世話になりました。
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