犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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the 禁句s 死にたい

2016年11月10日 | the 禁句s
[あらすじ] ひとに向かって「死ね」と言う人を好きになった人が
さほど冷たくない風に吹かれて「死ぬ」と言った。

昨日、東京で木枯らしが吹いた。
昨年より16日も遅いということだ。
木枯らしはやはり、今までの風とはひと味違う。
身がぴりりと引き締まる。
かの人はよほど今頃「死ぬ」と叫んでいるだろうか。
おだいじに。

「死ね」と言っても無意味、「今すぐ死ね」「早く死ね」なら呪いになる、
「いっぺん死ね」と私が言うのは「生まれ変われ」の願いの意味、
「死ぬ」と言うのも無意味、どうせ人はみないづれ死ぬ。

私が小学生の頃から、父という人は毎日のように「もうおしまいだ」と繰り返していた。
今はもうおしまいなので、この先生きている意味は無い、ということだ。
妻を亡くし、その人との間の子を亡くしている。
そこに注目すればそれは「もうおしまい」とも言いたくもなるだろうけれど、
一方で、次の妻とその子は元気で一緒に暮らしている。
こっちに注目すると、どこも「もうおしまい」ではない。

しかし子どもごころに「もうおしまい」の繰言は刷り込まれた。
これはいけない。
後に私も困難に遭った時に、生きていけないような気持ちになった。
その時の感覚は、「死にたい」ではなく、「消えてしまいたい」というものだったが。

またある時、家族らしいものを得た時があったが、そのひとが言った。
「死にたい」
おっとこれはいけない。
この人と一緒にいたい、という思いを持っている相手から、この言葉は聞きたくないものだ。
私の母もその夫からこの言葉を聞かされていただろうか。
「もうおしまいだ」で充分その意味とも思えるが。

お気付きのとおり、「死にたい」というのも意味は無い。
はい、お望みどおり、いつかは確実に死ねますよ。人間だもの。
言っている当人としては「もう早く死にたい」という意味で言っているのだろう。
そう言う以上に行動力が伴うと、自死に至る。
自死の是非や、自分の命は自分だけの所有物なのか、
などといった倫理学的な問題も絡んでくる。
それはちょいとまた簡単ではないのでおいておく。

私が今言えることは小さい。
どうせいつか最後には死ぬのだから、
「死ね」も「死ぬ」も「死にたい」も意味は無い。
もうちょっと大事に言葉を使おうや。
という程度のことだけ。

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