リハビリに取り組まない母に、鍼の先生は根気強く、
動き方の指導をしてくれる。
椅子からの立ち上がりの動作、寝返りの動作など。
パーキンソン病は、動作に関わる無意識の動きがスムーズにできなくなる。
今まで無意識でやっていたことを、意識的にする必要がある。
何年も、同じ点について指導している。
そのせいか、言葉に苛立ちも見える。
「練習しないとできるようにならないです。」
※
「今まで無意識でやっていたことを、意識的にする必要がある。」
と書いた。
これを、
「今まで無意識でやっていたことを、意識的にしなければならない。」
と書いても意味は同じだ。
だが、この二重否定がくせものだと私は思っている。
特に、リハビリやコーチの場面では。
二重否定は強い肯定を意味する。
「ほんとに意識的にやる必要があるんだよ!」と言いたいときに、
「意識的にやらねばならない。」と言う。
二重否定は強い肯定を意味する、とは言え、
やっぱり否定は否定なのである。
なんたって、二度も否定している。
その否定の雰囲気は、強く伝わる。
強く伝わることが、肯定の強調になるわけだが、
印象としてはやっぱりどうしても否定になる。
弱気なところに聞くと、否定的な印象が残ってしまう。
また、強い意志や強い言葉は、弱気なときに聞くと、
「そんなのわたしには無理」という気持ちになりかねない。
それで、私はひとに何かを伝えるときに、
強く伝えたいと思っても、二重否定は用いないように気を付けている。
「練習しないとできるようにならないです。」ではなく、
「練習すればできるようになっていきます。」と言う。
※
別の見方をすれば、
「練習すればできるようになっていきます。」というのも、
弱気なところに聞くと、嘘くさく感じる。
そんなの信じられない。
こんなに今できないのに、練習していればできるようになるとか、
そんな甘い言葉に乗せられる気になれない。
という気持ちも分かる。
また、「練習しないとできるようにならないです。」というのも、
単純に、事実である。
練習しないでほったらかしていたらぐんぐん上達した、ということがあるんなら
連れて来やがれと言いたいくらい、事実である。
しかし、人をやる気にさせるために話すときには、
事実を述べれば良いというものでもないだろう。
耳に残る印象の心地よい、肯定の意味のときは肯定の表現で伝えたい。
※
ところが、この二重否定の表現は、慣用的であり、
日常、無意識にごく自然に私たちは使っている。
「もう行かなきゃ」
などと、後半を略して言う。
行かなきゃなんなのだ、というところは略している。
略しているなどという意識は、もう無い。
「もう行かなきゃ、次の予定に間に合わない。」
という後半の否定がひそんでいる。
こんなの、あまりに慣用的で日常的なので、二重否定とも否定とも感じずに使っている。
言葉の癖として、多く使う人と、そうでもない人の違いはありそうだ。
習慣的によく使っているのを、意識して使わないようにすることは、
たしかになかなか難しいことではある。
しかし、意識してみるだけの意義はあると思う。
「よく見なきゃダメでしょ。」
うえーん、叱られた。
「よく見なさい。」
はい、よく見る。
子どもに注意するとき、どちらで言っているだろうか。
※
二重否定は、強い肯定の意味を持つと同時に、
後半の否定の部分が、聞く側に印象として残る。
と、私は考えている。
「よく見なきゃダメでしょ。」と言われると、
「ダメでしょ。」が残り、
「練習しないとできるようにならないです。」と言われると、
「できるようにならないです。」が残る、ということだ。
これはもう、呪いの言葉でしかない。(この表現も一種の二重否定である。)
より良い行動を促すつもりが、相手に呪いをかける結果になりかねない。
子育ての中で使う場合、二重否定で表現したらうまくいかない、
ということも無い。
言うことをよく聞く子になる場合もある。
「ダメでしょダメでしょ」と言われ続けたら、自己肯定感は下がり、
ひとの言うことをに従うようになる。
※
ちょっと話が広がり過ぎたきらいがあるが、
とかく、コーチやリハビリなど、ひとのトレーニングを促す場では、
否定的なことは否定の形で、肯定的なことは肯定の形で伝えたい、
という考えを持っている。
動き方の指導をしてくれる。
椅子からの立ち上がりの動作、寝返りの動作など。
パーキンソン病は、動作に関わる無意識の動きがスムーズにできなくなる。
今まで無意識でやっていたことを、意識的にする必要がある。
何年も、同じ点について指導している。
そのせいか、言葉に苛立ちも見える。
「練習しないとできるようにならないです。」
※
「今まで無意識でやっていたことを、意識的にする必要がある。」
と書いた。
これを、
「今まで無意識でやっていたことを、意識的にしなければならない。」
と書いても意味は同じだ。
だが、この二重否定がくせものだと私は思っている。
特に、リハビリやコーチの場面では。
二重否定は強い肯定を意味する。
「ほんとに意識的にやる必要があるんだよ!」と言いたいときに、
「意識的にやらねばならない。」と言う。
二重否定は強い肯定を意味する、とは言え、
やっぱり否定は否定なのである。
なんたって、二度も否定している。
その否定の雰囲気は、強く伝わる。
強く伝わることが、肯定の強調になるわけだが、
印象としてはやっぱりどうしても否定になる。
弱気なところに聞くと、否定的な印象が残ってしまう。
また、強い意志や強い言葉は、弱気なときに聞くと、
「そんなのわたしには無理」という気持ちになりかねない。
それで、私はひとに何かを伝えるときに、
強く伝えたいと思っても、二重否定は用いないように気を付けている。
「練習しないとできるようにならないです。」ではなく、
「練習すればできるようになっていきます。」と言う。
※
別の見方をすれば、
「練習すればできるようになっていきます。」というのも、
弱気なところに聞くと、嘘くさく感じる。
そんなの信じられない。
こんなに今できないのに、練習していればできるようになるとか、
そんな甘い言葉に乗せられる気になれない。
という気持ちも分かる。
また、「練習しないとできるようにならないです。」というのも、
単純に、事実である。
練習しないでほったらかしていたらぐんぐん上達した、ということがあるんなら
連れて来やがれと言いたいくらい、事実である。
しかし、人をやる気にさせるために話すときには、
事実を述べれば良いというものでもないだろう。
耳に残る印象の心地よい、肯定の意味のときは肯定の表現で伝えたい。
※
ところが、この二重否定の表現は、慣用的であり、
日常、無意識にごく自然に私たちは使っている。
「もう行かなきゃ」
などと、後半を略して言う。
行かなきゃなんなのだ、というところは略している。
略しているなどという意識は、もう無い。
「もう行かなきゃ、次の予定に間に合わない。」
という後半の否定がひそんでいる。
こんなの、あまりに慣用的で日常的なので、二重否定とも否定とも感じずに使っている。
言葉の癖として、多く使う人と、そうでもない人の違いはありそうだ。
習慣的によく使っているのを、意識して使わないようにすることは、
たしかになかなか難しいことではある。
しかし、意識してみるだけの意義はあると思う。
「よく見なきゃダメでしょ。」
うえーん、叱られた。
「よく見なさい。」
はい、よく見る。
子どもに注意するとき、どちらで言っているだろうか。
※
二重否定は、強い肯定の意味を持つと同時に、
後半の否定の部分が、聞く側に印象として残る。
と、私は考えている。
「よく見なきゃダメでしょ。」と言われると、
「ダメでしょ。」が残り、
「練習しないとできるようにならないです。」と言われると、
「できるようにならないです。」が残る、ということだ。
これはもう、呪いの言葉でしかない。(この表現も一種の二重否定である。)
より良い行動を促すつもりが、相手に呪いをかける結果になりかねない。
子育ての中で使う場合、二重否定で表現したらうまくいかない、
ということも無い。
言うことをよく聞く子になる場合もある。
「ダメでしょダメでしょ」と言われ続けたら、自己肯定感は下がり、
ひとの言うことをに従うようになる。
※
ちょっと話が広がり過ぎたきらいがあるが、
とかく、コーチやリハビリなど、ひとのトレーニングを促す場では、
否定的なことは否定の形で、肯定的なことは肯定の形で伝えたい、
という考えを持っている。
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