犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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喧嘩論法

2019年06月21日 | 椰子の実の中
私が勝手に、喧嘩論法と呼んでいるものが有る。
喧嘩に勝つための物の言い方だ。
議論のようにも聞こえるが、相手を打ち負かすための論理であって、
何か建設的な目的のために物を言っているわけではない。

具体的にどんな物言いなのか、
いつかまとめて書いてやろうと思っている。
遭遇した時に一言一句違わずにメモする必要が有ると感じている。
しかし、そんな物言いに遭遇した時は
大概ムカムカしてしまっていて、メモすることなど思い付かない。

一度きちんと記録して、その物言いが
どのように喧嘩でしかないのか、分析したい。



では、喧嘩で勝つとはどういうことか。
ここで喧嘩と言っているのは、言葉での言い合いのことを言っている。

お互いに自分の考えや意見や主張や観察結果などを述べ合うのが、
議論だと私は思っている。
そこに勝ち負けは無い。
どちらかがどちらかの意見に変える、という結果が無くてもいい。
なんらかの影響が、あとに残る。
それが議論だと思っている。
それは勝ち負けではない。

勝ち負けが有る意見の出し合いは、議論ではない他の何かだと思っている。
それがディベートといわれるものなのかもしれない。

英和辞典でdebateを確認してみる。
ジーニアス第五版によると、
①<人が>(公開の場で)<問題など>を〔…と〕(賛成・反対に分かれて正式に)
 討論する、討議する
とある。
なるほど。やはり、ディベートは対立有りきである。

そして、語義の前にこういう記載が有る。
【原義:打ち負かす(beat)】
やっぱり。
相手をぶちのめすのが、ディベートなのだ。



日常、誰かと言い合いになる時は、
どちらかが折れる、という結末を必要としがちだ。

ディベートに近いが、
相手の言うことに耳を貸さなくなったりすると、
それはもう喧嘩になってくる。
自分の言いたいことを言い放つだけになったら、
議論はおろか討論にすらならない。



喧嘩としての言い合いで勝つことの判定は、
「相手を黙らせる」ことにある、と私は思っている。

パンチを繰り出して(beat)浴びせかけて、相手がぶっ倒れて
もう何の攻撃も返してこなくなったら、それは喧嘩の勝ちだ。

言い合いも同じだろう。
相手が何も言わなくなったら勝ちだ。



だから、相手が何も言わなくなるためには、
どのような論理を用いても良い。
黙らせるのが目的であって、
既に自分の意見や立場を伝えることなどどうでもいいのだ。
公式な討論ではなくて日常の言い合いならば、それでいいってことになる。



威圧的に物を言うこと。
内容とは別に恫喝すること。
論点をずらすこと。
もっと滅茶滅茶なことを言って混乱させること。

どれも使える喧嘩論法だ。
また、逆の方法も有る。

とにかく平謝りに謝る。
なんなら土下座する。
哀願する。
急にお腹が痛くなる。

弱いんだから攻撃しないでください、というのも方法ではある。
強い手段を持たない者の知恵とも言えなくもない。
しかし卑怯とも言える。
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