[「粗忽長屋」のあらすじ] 熊五郎は自分のものだと思う死体を担ぎながら思う、
「俺が担いでいるこいつが俺なら、こいつを担いでいる俺は、誰なんだ?」
[あらすじ] 自分を自分たらしめているものは何か?
金曜日なので、話をまとめたい。
だからってんじゃないけれど、結論から書けば、
「そうでなければ自分ではなくなるような要素」以外は、
どうでもいいのだ。
自分が自分でなくなる、というのは、
何がどうなってしまうのかよく想像できない。
よく想像できないことは、不安だ。
それは避けたいような気がする。
じゃあ、自分って何なのか。
※
先日書いた、私は何者か、というものを見直してみる。
「須山×× 通称:す~さん 別名:須山葉月」
名前はその人を表すものだと思われているからこそ仮名で潜伏できたりするわけだが、
名前が変わったところで、その人がその人でなくなるわけではない。
「1969年○月○日生」
この肉体でこの世に登場した始まりの日なので、なんだかちょっと意味は有りそうだ。
「満48歳」
生まれたてのときも3歳のときも17歳のときも36歳のときも
昨日も今日も明日も、あと何年生きるか知らんがこの先も自分であることには変わりない。
「女性 ただし自認はX。」
この肉体でこの世で生きるということなので、性別も何か意味が有りそうだ。
そして、自認が身体と違っていることも、何か意味が有りそうではある。
「恋愛対象は女性。」
こんなことは動く。現に、私のお付き合いしてきた人は自分を異性愛者だと信じていた人が多い。
「独身」
結婚しようが離婚しようが自分が自分であることには変わりない。
なんだか一体感とか喪失感とかが伴ったりするだろうが、結婚や離婚をすると別人になるわけではない。
むしろ離婚したら自分らしさを取り戻したなんてな話をよく聞くくらいだ。
「身長159cm 体重55kg
身長が20cmくらい違ったら、視点も違うだろう。
落ち着く体重があるということにも、何か意味は有りそうだ。
「くせっ毛 半分白髪 色白だが腕は焼けている。」
生まれつきのものとか、その後の生き方とかが表れている。
でも、そうでなかったら自分ではない、というほどのものではない。
「大塚生まれ、調布育ち、深大寺在住。国籍:日本」
実に、この時代の日本の東京に生まれて生きる、ということには何か意味が有りそうだ。
今すべきことが有るのではないか。
「子どもの頃は喘息。アレルギーあり」
これも体関係。何がしかの意味は有りそうだ。
ただ、治ってしまったら別人になるかと言うと、そんなことはない。
「亡父:須山静夫 母:須山(旧姓:河辺)名保子」
生まれた時と場所や身体的特徴は、どの親から生まれているかが決めている。
だから、親が誰かということには意味がある。副次的だけど。
「母と同居、要介護1(変更申請中)パーキンソン病
中学高校は(略)鍼灸師(略)
自転車(略)犬(略)中学から肩こり(略)
トロンボーン(略)など 子どもの頃からお絵かき(略)など
一年あまり前から書道やサンスクリットを始めた。」
このあたりはみんな副次的。
どれも欠かして暮らすと自分らしくない気がするが、だからと言って
やってなけりゃ自分じゃないかと言うと、そうでもない。
「興味は広いが(略)理屈っぽいが(略)
社会的な話は苦手だが(略)あまり社交的ではない」
性格的な要素は、肉体的な特徴から大きく左右されていると思われる。
ただし、限定されたり影響されたりはしていても、他の要素つまり
環境だの生き方だの気の持ちようで変化はさせられる部分だ。
これはまたあらためてねちねち書こう。
※
さて、何が言いたいかと言うと。
私たちが「これが自分です」と思っている要素はいろいろ有るが、そのうち、
そうでなくっても自分な、おまけだったり飾りだったり一時的な状態だったり
というものがけっこう多い。
好きな食べ物は他愛の無い自己紹介でよく言うが、
食べなくったって自分であることには変わりない。
つまり自分そのものではない。
最たるものは病気である。
現代医療で治療法がわかっていないもの、難治と言われるものがある。
たとえば「私はパーキンソン病です。」と言う。
しかし、パーキンソン病じゃなかったときも今も自分であることには変わりないので、
パーキンソン病であることは自分にとって重要ではない。
難病です、治療法がわかりません、症状が良くなることはありますが完治はしません、
病気と上手に付き合っていきましょう、なんて
医療は言う。
あたかも、自分と病気はセットであって切っても切れないかのように聞こえる。
けれど、治ったって自分が自分であることには変わりはない。
自分であることには変わりないのだから、何も心配することはない。
治っても大丈夫だ。
「俺が担いでいるこいつが俺なら、こいつを担いでいる俺は、誰なんだ?」
[あらすじ] 自分を自分たらしめているものは何か?
金曜日なので、話をまとめたい。
だからってんじゃないけれど、結論から書けば、
「そうでなければ自分ではなくなるような要素」以外は、
どうでもいいのだ。
自分が自分でなくなる、というのは、
何がどうなってしまうのかよく想像できない。
よく想像できないことは、不安だ。
それは避けたいような気がする。
じゃあ、自分って何なのか。
※
先日書いた、私は何者か、というものを見直してみる。
「須山×× 通称:す~さん 別名:須山葉月」
名前はその人を表すものだと思われているからこそ仮名で潜伏できたりするわけだが、
名前が変わったところで、その人がその人でなくなるわけではない。
「1969年○月○日生」
この肉体でこの世に登場した始まりの日なので、なんだかちょっと意味は有りそうだ。
「満48歳」
生まれたてのときも3歳のときも17歳のときも36歳のときも
昨日も今日も明日も、あと何年生きるか知らんがこの先も自分であることには変わりない。
「女性 ただし自認はX。」
この肉体でこの世で生きるということなので、性別も何か意味が有りそうだ。
そして、自認が身体と違っていることも、何か意味が有りそうではある。
「恋愛対象は女性。」
こんなことは動く。現に、私のお付き合いしてきた人は自分を異性愛者だと信じていた人が多い。
「独身」
結婚しようが離婚しようが自分が自分であることには変わりない。
なんだか一体感とか喪失感とかが伴ったりするだろうが、結婚や離婚をすると別人になるわけではない。
むしろ離婚したら自分らしさを取り戻したなんてな話をよく聞くくらいだ。
「身長159cm 体重55kg
身長が20cmくらい違ったら、視点も違うだろう。
落ち着く体重があるということにも、何か意味は有りそうだ。
「くせっ毛 半分白髪 色白だが腕は焼けている。」
生まれつきのものとか、その後の生き方とかが表れている。
でも、そうでなかったら自分ではない、というほどのものではない。
「大塚生まれ、調布育ち、深大寺在住。国籍:日本」
実に、この時代の日本の東京に生まれて生きる、ということには何か意味が有りそうだ。
今すべきことが有るのではないか。
「子どもの頃は喘息。アレルギーあり」
これも体関係。何がしかの意味は有りそうだ。
ただ、治ってしまったら別人になるかと言うと、そんなことはない。
「亡父:須山静夫 母:須山(旧姓:河辺)名保子」
生まれた時と場所や身体的特徴は、どの親から生まれているかが決めている。
だから、親が誰かということには意味がある。副次的だけど。
「母と同居、要介護1(変更申請中)パーキンソン病
中学高校は(略)鍼灸師(略)
自転車(略)犬(略)中学から肩こり(略)
トロンボーン(略)など 子どもの頃からお絵かき(略)など
一年あまり前から書道やサンスクリットを始めた。」
このあたりはみんな副次的。
どれも欠かして暮らすと自分らしくない気がするが、だからと言って
やってなけりゃ自分じゃないかと言うと、そうでもない。
「興味は広いが(略)理屈っぽいが(略)
社会的な話は苦手だが(略)あまり社交的ではない」
性格的な要素は、肉体的な特徴から大きく左右されていると思われる。
ただし、限定されたり影響されたりはしていても、他の要素つまり
環境だの生き方だの気の持ちようで変化はさせられる部分だ。
これはまたあらためてねちねち書こう。
※
さて、何が言いたいかと言うと。
私たちが「これが自分です」と思っている要素はいろいろ有るが、そのうち、
そうでなくっても自分な、おまけだったり飾りだったり一時的な状態だったり
というものがけっこう多い。
好きな食べ物は他愛の無い自己紹介でよく言うが、
食べなくったって自分であることには変わりない。
つまり自分そのものではない。
最たるものは病気である。
現代医療で治療法がわかっていないもの、難治と言われるものがある。
たとえば「私はパーキンソン病です。」と言う。
しかし、パーキンソン病じゃなかったときも今も自分であることには変わりないので、
パーキンソン病であることは自分にとって重要ではない。
難病です、治療法がわかりません、症状が良くなることはありますが完治はしません、
病気と上手に付き合っていきましょう、なんて
医療は言う。
あたかも、自分と病気はセットであって切っても切れないかのように聞こえる。
けれど、治ったって自分が自分であることには変わりはない。
自分であることには変わりないのだから、何も心配することはない。
治っても大丈夫だ。
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