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犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
犬のこと、人の心身のこと、音楽や自作のいろいろなものについて

じゃあ俺は誰なんだ

2018年01月18日 | からだ
「粗忽長屋」という落語がある。
粗忽とは、おっちょこちょいのうっかり者のことだ。
長屋とは、今で言うアパートのようなものだ。

江戸の町は出稼ぎの独身男性が多かった。
「宵越しの銭は持たねえ」「江戸っ子気質」なんて言うけれど、
ただ、ひとりものが多かったからこその風潮とも言えるだろう。

壁の薄い、ワンルームに、家族を養う責任も持たない、若い男が
その日の自分が食う分だけ働いて暮らしている。
そんなところか。



ある日、長屋の八五郎が浅草の観音様にお参りに行くと、
道端に人だかりができている。
何かと思って近付いてみると、「いきだおれだ」ということだ。

おいおい起きろと八五郎は声を掛ける。
いやいや死んでいるのだ、と周囲の人は説明する。
だって「いきだおれ」だろう?死んでんなら「しにだおれ」のはずだ。
と、八五郎は言う。粗忽である。

行き倒れの顔を見ると、長屋の隣に住む、兄弟分の熊五郎だ。
―それはいい。身元がわからなくて困っていたところだ。と、周囲の人は言う。
今朝、観音詣でに誘ったら、今日は気分が悪いからと断られた。
―いやそんなら別人だ。この行き倒れは昨夜っからここで死んでんだ。と、周囲の人は言う。

いや、今朝長屋で会って気分が悪いと休んでいるのだから今は家にいる。
熊五郎本人をここに呼んで、死体を見せて確かめさせよう。
と、八五郎は続ける。粗忽である。

八五郎は長屋に引き返して、熊五郎に知らせる。
おまえは浅草の観音様で行き倒れているぞ。
お前昨夜どこへ行った?その帰りに死んで、気付かずに帰って来たんだ。
早く行って、死体を引き取らなきゃいけねえ。
そう言われて熊五郎も、なんだかそんな気がして、一緒に観音様に行く。

見てみると、たしかに俺だ。
周囲の人は、妙な人が一人増えたと思うものの、
引き取り手が決まるからいいと、そのまま八と熊に死体を引き渡す。
思えばこの周囲の人々も粗忽である。

死体を担いで帰りながら、熊五郎は考える。
担いでいるこの死体が俺なら、じゃあ担いでいるこの俺は誰なんだ?



[あらすじ] 自分は誰か、どういう人間か、ということを書いてみてほしい。

現実の生活の中で、自分個人を規定しているものは、
この「粗忽長屋」で言われているもの、つまり
肉体なんじゃないか、と私は思う。

私たちが「心」と思っているものや、
「思考」とか「性格」とか思っているものの多くも、
この肉体から発しているとも言える。

魂が存在したとして、死んでも魂が存続したり、
転生してまた別の生を生きたとしても、
今の自分が自分という枠に収まっているのは、
この肉体に魂が収まっているから、と見ることもできる。

脳であれ、筋肉であれ骨であれ、胃腸であれ内臓であれ、
身体的な生まれつきの要素は、生き方を大きく左右している。

そこで、あらためて、
自分は誰か、どういう人間か、と書いたものを見直してみる。

自分が自分だということを決めている要素って、何だろう?


つづく


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