「粗忽長屋」という落語がある。
粗忽とは、おっちょこちょいのうっかり者のことだ。
長屋とは、今で言うアパートのようなものだ。
江戸の町は出稼ぎの独身男性が多かった。
「宵越しの銭は持たねえ」「江戸っ子気質」なんて言うけれど、
ただ、ひとりものが多かったからこその風潮とも言えるだろう。
壁の薄い、ワンルームに、家族を養う責任も持たない、若い男が
その日の自分が食う分だけ働いて暮らしている。
そんなところか。
※
ある日、長屋の八五郎が浅草の観音様にお参りに行くと、
道端に人だかりができている。
何かと思って近付いてみると、「いきだおれだ」ということだ。
おいおい起きろと八五郎は声を掛ける。
いやいや死んでいるのだ、と周囲の人は説明する。
だって「いきだおれ」だろう?死んでんなら「しにだおれ」のはずだ。
と、八五郎は言う。粗忽である。
行き倒れの顔を見ると、長屋の隣に住む、兄弟分の熊五郎だ。
―それはいい。身元がわからなくて困っていたところだ。と、周囲の人は言う。
今朝、観音詣でに誘ったら、今日は気分が悪いからと断られた。
―いやそんなら別人だ。この行き倒れは昨夜っからここで死んでんだ。と、周囲の人は言う。
いや、今朝長屋で会って気分が悪いと休んでいるのだから今は家にいる。
熊五郎本人をここに呼んで、死体を見せて確かめさせよう。
と、八五郎は続ける。粗忽である。
八五郎は長屋に引き返して、熊五郎に知らせる。
おまえは浅草の観音様で行き倒れているぞ。
お前昨夜どこへ行った?その帰りに死んで、気付かずに帰って来たんだ。
早く行って、死体を引き取らなきゃいけねえ。
そう言われて熊五郎も、なんだかそんな気がして、一緒に観音様に行く。
見てみると、たしかに俺だ。
周囲の人は、妙な人が一人増えたと思うものの、
引き取り手が決まるからいいと、そのまま八と熊に死体を引き渡す。
思えばこの周囲の人々も粗忽である。
死体を担いで帰りながら、熊五郎は考える。
担いでいるこの死体が俺なら、じゃあ担いでいるこの俺は誰なんだ?
※
[あらすじ] 自分は誰か、どういう人間か、ということを書いてみてほしい。
現実の生活の中で、自分個人を規定しているものは、
この「粗忽長屋」で言われているもの、つまり
肉体なんじゃないか、と私は思う。
私たちが「心」と思っているものや、
「思考」とか「性格」とか思っているものの多くも、
この肉体から発しているとも言える。
魂が存在したとして、死んでも魂が存続したり、
転生してまた別の生を生きたとしても、
今の自分が自分という枠に収まっているのは、
この肉体に魂が収まっているから、と見ることもできる。
脳であれ、筋肉であれ骨であれ、胃腸であれ内臓であれ、
身体的な生まれつきの要素は、生き方を大きく左右している。
そこで、あらためて、
自分は誰か、どういう人間か、と書いたものを見直してみる。
自分が自分だということを決めている要素って、何だろう?
つづく
粗忽とは、おっちょこちょいのうっかり者のことだ。
長屋とは、今で言うアパートのようなものだ。
江戸の町は出稼ぎの独身男性が多かった。
「宵越しの銭は持たねえ」「江戸っ子気質」なんて言うけれど、
ただ、ひとりものが多かったからこその風潮とも言えるだろう。
壁の薄い、ワンルームに、家族を養う責任も持たない、若い男が
その日の自分が食う分だけ働いて暮らしている。
そんなところか。
※
ある日、長屋の八五郎が浅草の観音様にお参りに行くと、
道端に人だかりができている。
何かと思って近付いてみると、「いきだおれだ」ということだ。
おいおい起きろと八五郎は声を掛ける。
いやいや死んでいるのだ、と周囲の人は説明する。
だって「いきだおれ」だろう?死んでんなら「しにだおれ」のはずだ。
と、八五郎は言う。粗忽である。
行き倒れの顔を見ると、長屋の隣に住む、兄弟分の熊五郎だ。
―それはいい。身元がわからなくて困っていたところだ。と、周囲の人は言う。
今朝、観音詣でに誘ったら、今日は気分が悪いからと断られた。
―いやそんなら別人だ。この行き倒れは昨夜っからここで死んでんだ。と、周囲の人は言う。
いや、今朝長屋で会って気分が悪いと休んでいるのだから今は家にいる。
熊五郎本人をここに呼んで、死体を見せて確かめさせよう。
と、八五郎は続ける。粗忽である。
八五郎は長屋に引き返して、熊五郎に知らせる。
おまえは浅草の観音様で行き倒れているぞ。
お前昨夜どこへ行った?その帰りに死んで、気付かずに帰って来たんだ。
早く行って、死体を引き取らなきゃいけねえ。
そう言われて熊五郎も、なんだかそんな気がして、一緒に観音様に行く。
見てみると、たしかに俺だ。
周囲の人は、妙な人が一人増えたと思うものの、
引き取り手が決まるからいいと、そのまま八と熊に死体を引き渡す。
思えばこの周囲の人々も粗忽である。
死体を担いで帰りながら、熊五郎は考える。
担いでいるこの死体が俺なら、じゃあ担いでいるこの俺は誰なんだ?
※
[あらすじ] 自分は誰か、どういう人間か、ということを書いてみてほしい。
現実の生活の中で、自分個人を規定しているものは、
この「粗忽長屋」で言われているもの、つまり
肉体なんじゃないか、と私は思う。
私たちが「心」と思っているものや、
「思考」とか「性格」とか思っているものの多くも、
この肉体から発しているとも言える。
魂が存在したとして、死んでも魂が存続したり、
転生してまた別の生を生きたとしても、
今の自分が自分という枠に収まっているのは、
この肉体に魂が収まっているから、と見ることもできる。
脳であれ、筋肉であれ骨であれ、胃腸であれ内臓であれ、
身体的な生まれつきの要素は、生き方を大きく左右している。
そこで、あらためて、
自分は誰か、どういう人間か、と書いたものを見直してみる。
自分が自分だということを決めている要素って、何だろう?
つづく
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