最近本業?である映画批評をサボってクラシック音楽感想文ブログと化しておりますが、それはいよいよ今週に迫ったベルリンフィル川崎公演でクラシック熱が上がってるからです
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ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」(タコ7)は10年前からCDを持っていた。その時買ったのはエリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団版で、なんでそれを買ったのかといえば当時住んでいた松本で通っていたCD屋、WAVEパルコ店にはタコ7はそれしかなかったからだ
もちろん曲自体がいいから何度もリピートして聞いてはいたのだが、心のどこかで満たされない思いがあった。これよりいい演奏のものがきっとあるはずと
まあ10年も聞いてきたCDだからそれなりに思い入れはあるけど
そして今年2017になって見つけた。
レナード・バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団の80年代録音。これだ。これが俺の探し求めていた「レニングラード」だ!!
ずーっとシカゴ響はブラスの音が厚いぜ!!と思ってきたが、悪ノリ魔王バーンスタインの熱狂的な指揮と相まって圧倒的な音圧となって俺を襲う。
クラシックファンはよく世界三大オケとして、ベルリンフィル、ウィーンフィル、ロイヤルコンセルトヘボウの三つを上げる
でも俺にとっての三大は、ベルリンフィル、シカゴ響、ロンドン響だ。ロンドンは映画音楽がらみのえこひいきですけど。
ウィーンフィルは「美音」と形容されることが多い。そういう形容をシカゴ響でするなら「爆音」。
だからシカゴ響は、ショルティという調和と正確性を何より大事にする指揮者を中心に据えてバランスを取ってきたのではないか。
半生をシカゴ響にささげたショルティにこういうこと言うのは失礼かもしれないが、シカゴ響の真価は客演指揮者の演奏の時にこそ現れる。
あののんびり屋のクラウディオ・アバドが振ってもなお壮絶だったチャイコ「1812年」でもかなりしびれた
そしてこの「レニングラード」は熱狂のエンターティナーバーンスタインが振る。ショルティ指揮の抑制された音と異なり、封印を解かれたシカゴ響の爆音攻撃はそれこそドイツ軍に浴びせる銃弾砲弾のごときだ
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ソ連で生まれ育ち、革命や独ソ戦をテーマにした曲の多いショスタコーヴィチは当然ながら東側に名演が多い。一方で西側のショスタコ指揮者の代表格といえばレナード・バーンスタインではなかろうか。
しかし彼がニューヨークフィルの首席指揮者だったのは50年代、ハリウッドでは赤狩りの嵐が吹き荒れていた頃。ソ連の音楽を好んで手がけるバーンスタインは赤狩りの標的にならなかったのだろうか….
と思って調べてみたらやっぱり赤狩りでは苦労したらしい。
何よりバーンスタイン自身が戦前はアメリカ共産党員だったという。なるほど、だからショスタコにシンパシー感じたのかもしれん。バーンスタインと赤狩りの話はそのうちまた別の機会に
またショスタコはこの7番にユダヤ音楽の要素を取り入れているという。何がどうユダヤ的なのか俺にはわからんが、そういえばショスタコの13番はソ連の裏歴史におけるユダヤ受難を扱っているし、そうしたところからバーンスタインのユダヤの血が騒いだってのもあるかもしれない。
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ショスタコーヴィチの第7番「レニングラード」はソ連とドイツの戦争真っ只中に作曲された。第7番から9番を彼は戦争三部作と位置付けており、その一つ目だ。
ショスタコーヴィチの交響曲の中でも5番と人気を二分する代表作の一つと言える。そして5番と同様に非常にわかりやすい「上がる」楽曲で、当時のソ連政府ウケが良かったろうと思われるが、それは同時に5番と同様に必ずしもショスタコの本心ではない作品でもあるかもしれない。
戦争三部作の他の二つと比べるとあまりにも単純だ。勝利を目指して戦う、そんな曲。
8番と9番は勝利に乗ってイケイケな時期にもかかわらずあえて戦争の愚かさを描いているように思える。
とはいえ7番を作った時はあまりに切羽詰まった状況だった。
ドイツ軍はソ連の第二の都市、帝政時代の首都、革命の地、レーニンの名前を冠したレニングラードを包囲して、陥落寸前まで追い込んでいた。
レニングラードの市民は、ドイツ軍の攻撃よりも飢えで死ぬ人の方が多かったという、凄惨極まる戦いだった。
インバル版の解説にはショスタコーヴィチは最後までレニングラードに留まって作曲を進めたと書いてあったが、バーンスタイン版の解説では完成の頃には疎開していた、とも書いてある。真実はわからないが、ソ連が国家の至宝と言える作曲家を戦意高揚のためとはいえ危険なレニングラードに残していたとは考え難い。
初演はドイツの包囲下のレニングラードで行われた。爆撃が伴奏につくかと思いきや、初演の前に決死的攻撃を敢行してドイツ軍を後退させたので演奏中の爆撃はなかったとか、嘘っぽいが面白い逸話もある
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私はショスタコの交響曲ではなんだかんだで7番が一番好きだ。
ただ同時にこの曲はショスタコの良い癖も悪い癖も全部現れた欠点も多い曲だ。
気持ちが高ぶっていたのか、構成が雑で何がしたいのかよくわからない。
全楽章、どっかで戦争が起こるように変な盛り上がりが入る
第二楽章など静かな曲のままいくのかと思いきや、「静かなのあきた・・・」と言わんばかりに突如として後半激しくなる。
第3楽章、とても美しく何とも言えずロマンチックな、恋愛映画のテーマ曲にも使えそうなショスタコ中でも屈指の名曲・・・なのにこれも中盤で愛を囁き合っていたカップルがライフルを取って戦い始めるかのように戦争になる
何で我慢できないんだ!ショスタコ! でもそんな無制御っぷりが、そのせいでやたら長くなったけど、とてもいい
終楽章の第四楽章、ここは第5番の感動再びと思ったのか、5番の四楽章と同じことやろうとして失敗した感がある。とはいえ、乗ってる時の天才は違う。失敗してもなお強引に感動させる。コーダは当時のハリウッド大作映画のエンディングよろしく、なんかよくわかんない感動の圧力がある。また最後にティンパニドンドコならしちゃって。
第一楽章に戻る。とても有名である
この楽章だけで30分近くあるのだが、全くダレることない戦争の音楽。中でも白眉なのは中盤のボレロだ
有名なラベルのボレロと同じような、小太鼓がリズムを刻みながら色んな楽器のソロが短いメロディを奏でてやがてオーケストラの厚みを増していく
何か当時のソ連の映画やプロレタリア文学によく見られる、一人の小さな行動が、やがて大きな大きな国民的なうねりとなっていく、一滴の波紋が池全体に広がっていくかのように・・・ってのと似ており、社会主義的リアリズムとぴったり一致した音楽と言えるかもしれない
でもそんなことと関係なく、このボレロは何度聞いても心がたぎる。さらにシカゴ響の爆音演奏だからなおさらだ。
勝負のプレゼンの日とか、ついに来た本番公演初日とか、いよいよクランクインとか、今日こそプロポーズとか、そういう気合いの必要な日の朝に聞いてほしい。
そんな日にマーラー9番とかブラームス1番とか聞いて心を落ち着かせちゃダメだ。
ショスタコの戦争ボレロで燃えるんだ。
当時ドイツに包囲され絶望しかなかったレニングラード市民にショスタコーヴィチはどんな思いでこの曲を書いたのか。
ソ連政府に書かされた面はあったかもしれないが、それでも7番を書いているときは割と純粋な愛国者だったのではないか、なんて思う
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ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」(タコ7)は10年前からCDを持っていた。その時買ったのはエリアフ・インバル指揮ウィーン交響楽団版で、なんでそれを買ったのかといえば当時住んでいた松本で通っていたCD屋、WAVEパルコ店にはタコ7はそれしかなかったからだ
もちろん曲自体がいいから何度もリピートして聞いてはいたのだが、心のどこかで満たされない思いがあった。これよりいい演奏のものがきっとあるはずと
まあ10年も聞いてきたCDだからそれなりに思い入れはあるけど
そして今年2017になって見つけた。
レナード・バーンスタイン指揮シカゴ交響楽団の80年代録音。これだ。これが俺の探し求めていた「レニングラード」だ!!
ずーっとシカゴ響はブラスの音が厚いぜ!!と思ってきたが、悪ノリ魔王バーンスタインの熱狂的な指揮と相まって圧倒的な音圧となって俺を襲う。
クラシックファンはよく世界三大オケとして、ベルリンフィル、ウィーンフィル、ロイヤルコンセルトヘボウの三つを上げる
でも俺にとっての三大は、ベルリンフィル、シカゴ響、ロンドン響だ。ロンドンは映画音楽がらみのえこひいきですけど。
ウィーンフィルは「美音」と形容されることが多い。そういう形容をシカゴ響でするなら「爆音」。
だからシカゴ響は、ショルティという調和と正確性を何より大事にする指揮者を中心に据えてバランスを取ってきたのではないか。
半生をシカゴ響にささげたショルティにこういうこと言うのは失礼かもしれないが、シカゴ響の真価は客演指揮者の演奏の時にこそ現れる。
あののんびり屋のクラウディオ・アバドが振ってもなお壮絶だったチャイコ「1812年」でもかなりしびれた
そしてこの「レニングラード」は熱狂のエンターティナーバーンスタインが振る。ショルティ指揮の抑制された音と異なり、封印を解かれたシカゴ響の爆音攻撃はそれこそドイツ軍に浴びせる銃弾砲弾のごときだ
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ソ連で生まれ育ち、革命や独ソ戦をテーマにした曲の多いショスタコーヴィチは当然ながら東側に名演が多い。一方で西側のショスタコ指揮者の代表格といえばレナード・バーンスタインではなかろうか。
しかし彼がニューヨークフィルの首席指揮者だったのは50年代、ハリウッドでは赤狩りの嵐が吹き荒れていた頃。ソ連の音楽を好んで手がけるバーンスタインは赤狩りの標的にならなかったのだろうか….
と思って調べてみたらやっぱり赤狩りでは苦労したらしい。
何よりバーンスタイン自身が戦前はアメリカ共産党員だったという。なるほど、だからショスタコにシンパシー感じたのかもしれん。バーンスタインと赤狩りの話はそのうちまた別の機会に
またショスタコはこの7番にユダヤ音楽の要素を取り入れているという。何がどうユダヤ的なのか俺にはわからんが、そういえばショスタコの13番はソ連の裏歴史におけるユダヤ受難を扱っているし、そうしたところからバーンスタインのユダヤの血が騒いだってのもあるかもしれない。
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ショスタコーヴィチの第7番「レニングラード」はソ連とドイツの戦争真っ只中に作曲された。第7番から9番を彼は戦争三部作と位置付けており、その一つ目だ。
ショスタコーヴィチの交響曲の中でも5番と人気を二分する代表作の一つと言える。そして5番と同様に非常にわかりやすい「上がる」楽曲で、当時のソ連政府ウケが良かったろうと思われるが、それは同時に5番と同様に必ずしもショスタコの本心ではない作品でもあるかもしれない。
戦争三部作の他の二つと比べるとあまりにも単純だ。勝利を目指して戦う、そんな曲。
8番と9番は勝利に乗ってイケイケな時期にもかかわらずあえて戦争の愚かさを描いているように思える。
とはいえ7番を作った時はあまりに切羽詰まった状況だった。
ドイツ軍はソ連の第二の都市、帝政時代の首都、革命の地、レーニンの名前を冠したレニングラードを包囲して、陥落寸前まで追い込んでいた。
レニングラードの市民は、ドイツ軍の攻撃よりも飢えで死ぬ人の方が多かったという、凄惨極まる戦いだった。
インバル版の解説にはショスタコーヴィチは最後までレニングラードに留まって作曲を進めたと書いてあったが、バーンスタイン版の解説では完成の頃には疎開していた、とも書いてある。真実はわからないが、ソ連が国家の至宝と言える作曲家を戦意高揚のためとはいえ危険なレニングラードに残していたとは考え難い。
初演はドイツの包囲下のレニングラードで行われた。爆撃が伴奏につくかと思いきや、初演の前に決死的攻撃を敢行してドイツ軍を後退させたので演奏中の爆撃はなかったとか、嘘っぽいが面白い逸話もある
———
私はショスタコの交響曲ではなんだかんだで7番が一番好きだ。
ただ同時にこの曲はショスタコの良い癖も悪い癖も全部現れた欠点も多い曲だ。
気持ちが高ぶっていたのか、構成が雑で何がしたいのかよくわからない。
全楽章、どっかで戦争が起こるように変な盛り上がりが入る
第二楽章など静かな曲のままいくのかと思いきや、「静かなのあきた・・・」と言わんばかりに突如として後半激しくなる。
第3楽章、とても美しく何とも言えずロマンチックな、恋愛映画のテーマ曲にも使えそうなショスタコ中でも屈指の名曲・・・なのにこれも中盤で愛を囁き合っていたカップルがライフルを取って戦い始めるかのように戦争になる
何で我慢できないんだ!ショスタコ! でもそんな無制御っぷりが、そのせいでやたら長くなったけど、とてもいい
終楽章の第四楽章、ここは第5番の感動再びと思ったのか、5番の四楽章と同じことやろうとして失敗した感がある。とはいえ、乗ってる時の天才は違う。失敗してもなお強引に感動させる。コーダは当時のハリウッド大作映画のエンディングよろしく、なんかよくわかんない感動の圧力がある。また最後にティンパニドンドコならしちゃって。
第一楽章に戻る。とても有名である
この楽章だけで30分近くあるのだが、全くダレることない戦争の音楽。中でも白眉なのは中盤のボレロだ
有名なラベルのボレロと同じような、小太鼓がリズムを刻みながら色んな楽器のソロが短いメロディを奏でてやがてオーケストラの厚みを増していく
何か当時のソ連の映画やプロレタリア文学によく見られる、一人の小さな行動が、やがて大きな大きな国民的なうねりとなっていく、一滴の波紋が池全体に広がっていくかのように・・・ってのと似ており、社会主義的リアリズムとぴったり一致した音楽と言えるかもしれない
でもそんなことと関係なく、このボレロは何度聞いても心がたぎる。さらにシカゴ響の爆音演奏だからなおさらだ。
勝負のプレゼンの日とか、ついに来た本番公演初日とか、いよいよクランクインとか、今日こそプロポーズとか、そういう気合いの必要な日の朝に聞いてほしい。
そんな日にマーラー9番とかブラームス1番とか聞いて心を落ち着かせちゃダメだ。
ショスタコの戦争ボレロで燃えるんだ。
当時ドイツに包囲され絶望しかなかったレニングラード市民にショスタコーヴィチはどんな思いでこの曲を書いたのか。
ソ連政府に書かされた面はあったかもしれないが、それでも7番を書いているときは割と純粋な愛国者だったのではないか、なんて思う