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『ウエスト・サイド・ストーリー』(スピルバーグ版) 〜~その2・男たちの影と、女たちの熱。61年版との違い

2022-03-15 18:24:00 | 映評 2013~
主に音楽面について語った「その一」に続いて、今回はスピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』の演技や演出や脚本について、61年版との違いと、そこから見える2020年代にウエスト・サイド・ストーリーを作ったスピルバーグの意図を解きほぐしていこうと思います

なお「その一」はこちらからどうぞ

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【男たちの影】
スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』を鑑賞してから、毎日のようにスピルバーグ版のサントラを聞いています(もちろん61年版のサントラも、バーンスタイン指揮の「シンフォニックダンス」も聞いています)
それで気が付いたというか気になったのが、スピルバーグ版でトニーを演じたアンセル・エルゴートの声質です。台詞にしても歌にしても、ちょっとくぐもった発声です。それは聞く相手に声をぶつけるというよりは、自分の内側に向けて声を出しているように聞こえます。
それが良い悪いという話ではありません。この内向きの発声は、スピルバーグ版『ウエストサイドストーリー』の特徴が反映されている気がしたのです。

61年版のトニーは…と、書こうとしてちょいと脱線しますが、私は61年版は心から大好きな映画で何十回と観たというのに、どうしても61年版トニーを演じた俳優の名前が覚えられませんでした。「ナタリー・ウッドとジョージ・チャキリスとリタ・モレノと、それから…ほら、あのトニーやってたさえない奴…」みたいな感じでした。もちろんこの記事を書くにあたって知らんでは済まないのでやっと覚えました。リチャード・ベイマーですね。主役の俳優くらい覚えとけよな!!でも、なんかあんまり華がないんだよな…ぶつぶつ

話を戻して、61年版トニーを演じたリチャード・ベイマーはまっすぐぶつけてくるように台詞を吐き、「サムシングカミング」を聴き比べればわかるように、歌い方も観客に向けてまっすぐです。(いや、61年版ではベイマーだけでなくほぼ全部のキャストの歌が吹替だったことは知ってますよ。でも俳優の声質に近い声の歌手を使うわけですから)

61年版はトニーだけでなく、リフやアイスやベイビージョンなどのジェッツの面々はみんな、深いことを何も考えていない、精一杯今を謳歌しているような陽気さがありました。悪い言い方するとみんなアホっぽかったのです。対してスピルバーグ版はリフたちジェッツの面々も、あるいはベルナルドらシャークスの面々にも、演技に「影」を感じるのです。

これら演技や発声の感じの違いを、俳優としての資質の違いだけで語るのは間違いです。そういう一面も有るでしょうが、俳優の表現の違いは、演出や脚本の方向性の違いを表しています。

男たちの演技の質の違いは、実はオープニングですでに決定づけられている気がするのです。

61年版のオープニングは有名な、ニューヨークを俯瞰する空撮映像から始まります。国連本部、ヤンキースタジアム、マンハッタンといった華々しい大都会ニューヨーク…の中の誰も目にとめないようなウエストサイドの裏路地で…と言わんばかりカメラは超ロングの空撮映像から、カット割りながらぐんぐん寄って行って、不良少年たちの指先へと、超ロングから超クローズへと。
61年当時におけるニューヨークの「今」を舞台にしていることを印象付けるのです。だからジェッツもシャークスも、まだ未来に何があるかなんてわからない。俺たちの未来を目指して今を精一杯生きるんだ、という演出につながります。なにしろ時代設定がほぼリアルタイムなので、ジェッツもシャークスも未来を好きに夢想できるし、彼らは彼らなりの理想の未来に向けて今を生きているのです。

個人的印象論ですが61年版の男性キャラたちは、現在80%、未来20%くらいを想って演技をし歌っているようです。
対してスピルバーグ版の男性キャストは、過去50%、現在50%くらいの想いを各自が持っているような気がします。

スピルバーグ版は瓦礫の山と化した破壊が進むスラム街から始まります。
そしてウエストサイド地区の取り壊しが進んでいることを観客に印象付けます。そして物語序盤で強調するように、警官が不良たちにお前たちの街はどうせお終いだと告げます。
そして2022年の我々は実際のところスラム街が再開発される未来を知っているわけです。
だからスピルバーグ版男性キャストたちは、もう未来はないことを突きつけられており、未来がない以上彼らは過去を見て生きるしかないのです。その過去を想う気持ちが、俳優たちに影を感じさせているのだと思います。

実際、パンフレットによると脚本のトニー・クシュナーは、端役に至るまで一人一人のキャラにちょっとした小説になるくらいの過去の物語を作り、キャストたちはそれをキャラクターのバックボーンにして演じていったといいます。
またクシュナーはトニーのキャラについても「原作ではトニーが根っからの好青年として描かれている」とした上で、彼の過去の暴力や問題だらけの幼少期を与えてみた、とパンフに書かれていました。

この「キャラクターの過去作り」はなにもスピルバーグ映画の特長ってわけではなく、現代の映画演出の基本だと思っています。
とくにアクターズスタジオ出身俳優たちがいわゆるメソッド演技をするようになって、俳優は役の深堀りをするようになりました。61年版のころだってすでにマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンが人気だったので、そうした風潮はあったはずですが、シリアスなドラマではなくミュージカルのようなエンターテインメント性の強い作品ではもっと表面的な芝居のような演出をしていたのではないかと思います。
ヒッチコックなんかはアクターズスタジオ上がりの連中は頼んでもいないのに勝手に感情をつけて困るなどと言ってましたが、現代ではジャンルを問わず役にリアリティを求めるのが主流です。

さらにいえばスピルバーグはおそらく今回のウエストサイドストーリーをただの娯楽映画のつもりでは作っていないと思いますが、この辺の考察は詳しくは後ほど…

そんなこんなで男たち、とくにトニーは、過去にこだわります。トニーは61年版にはなかった自身の過去のあやまちの話をマリアに聞かせます。彼は過去にとらわれていて、そんな過去の自分からの脱却を望んでいるのです。だからなのか「トゥナイト」などのロマンチックな場面で見せる笑顔にもどこか自嘲的な雰囲気が感じられます。そして61年版トニーの様に自分一人の世界に陶酔したりははせず、いつも自分を客観視している気がします。
61年版では「サムシングカミング」や「マリア」の歌唱シーンにはトニー一人しか映りませんでした。スピルバーグ版ではそうしたトニーだけの歌においても常に第三者が登場します。「サムシングカミング」ではリタ・モレノ演じるバレンティナが、「マリア」ではプエルトリコ地区の住人たち・・といったように。これはトニーの61年版との性格の違いを反映しているのだと思うのです。彼は色んなものや人を意識するのです。

トニーはじめ他の面々も、心のどこかで未来に絶望しており、過去を重荷のように背負って、でもなんとかしようともがき続けます。
その結果、男たちはみんなが間違いを犯します。若者は殺し合い、ヘイトと言ってもいいような行動をし(プエルトリコの国旗を汚すとか)、そして女を襲います。61年版は若さの暴走で片付けていたような節もありますが、スピルバーグ版は主に男性側による加害行動を強調し、現代と同じ問題として描きます。だからスピルバーグは、シリアスな社会ドラマと同様な演出とキャラクター造形をあえて行ったと思います。
単純ゆえに不良でも愛嬌があり親しみが持てた61年版のジェッツとシャークスですが、スピルバーグ版はみんな若者なりに真剣に考え、何かに悩んでいます。俳優たちを悩ませれば自然と縁起にも影が出てくるのです。


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【女たちの熱】
スピルバーグ版ウエストサイドストーリーで印象的なのは、前述した男性側の描写よりも実はむしろ女性の描き方が、61年版とちがい、2020年代に即したものに変わっている点です。アップデートと呼んでいいかもしれません。

61年版のマリアは、兄のベルナルドから「俺に逆らうな」と言われたらそこで口をつぐんでしまうような女の子でした。その代わりにマリアが言えないことをアニータが言っていたのですが。
61年版の兄に逆らわないマリアは、この時代の女の子の描き方としては普通だったと思います。普通だったから良いってわけではないですが。
しかしこのジェンダー平等が叫ばれる時代に、あの当時と同じ描き方が許されるはずもなく、スピルバーグ版のマリアはおっかないベルナルドに対してもはっきりと自分の意志を主張し、むしろベルナルドを黙らせます。
このマリアのキャラクターの変化は基本的には歓迎すべきと思います。
しかし61年版だって単に女は従順なものだからってだけでマリアをあのようにしていたわけではないのです。マリアが男に逆らわないキャラだったからこそ最終盤で拳銃を取り、チノやジェッツの面々に銃を向けて「みんな憎い、みんな殺して私も死ぬ」的なことを言うから、ものすごいショックを受けたのです。
スピルバーグ版の場合は、終盤の行動はキャラとして一貫性がありすぎて、衝撃は薄れました。とはいえマリアを演じたレイチェル・セグラーの気迫あふれる芝居に撃たれて何十回も観たウエストサイドストーリーなのにまた泣いてしまったのですが。
また、マリアは61年版ではトニーに「決闘の場に行ってやめさせて」、と言いますが、スピルバーグ版では「決闘の場には行かないで、もう関わらないで」と言います。それに対してトニーは自分の意志を優先して決闘の場に行くのです。
61年版のリフとベルナルド死亡に関してはマリアにも多少の負い目があったのですが、スピルバーグ版ではマリアのいうことを聞いていればあの悲劇は起きなかったわけで、マリアは正しく無罪放免なのです。同じ原作、同じストーリーでありながら女が悪者にならないように慎重に配慮していることがうかがえます。
これは深読みかもしれませんが社会を変えていくのは女たちだ…とスピルバーグが考えているからかもしれません。

思えばスピルバーグは女性を描くのがあまり得意ではない人でした。女性が主人公の映画だってわずかに『カラーパープル』と『ペンタゴン・ペーパーズ』くらいです。そして男たちが頑張って社会に抗い社会を変えていった映画はずいぶん作ってきましたが、実は今回ほど男を悪に、女を善にした映画は無いのではないか?あるいはそれこそが、ウエストサイドストーリーを2022年に発表した意味なのかもしれません。

アニータがドクの店にやって来て、気が立っていたジェッツの面々にあわや…という場面。
ここでは店から締め出されたジェッツの女たちもアニータを助けようとドアの外からやめてと叫びます。61年版ではその場にいながら黙って見ているだけだったエニーボディズ(ジェッツにまとわりつくボーイッシュな女の子)も、店に来たアニータに対して「今は帰んな」と言って半分彼女の味方になっていました。
しかし、マリアの伝言を告げるため危険な空気を感じつつジェッツの男たちだけがいる店内に入ったアニータは、彼らに襲われます。その彼女を救ったのがまた店の女将さんのバレンティナです。(かつて同じ目にあったリタ・モレノがアニータを救うという映画史的な感動もあるのですが、それは置いといて)
私が言いたいのは、女たちはジェッツもシャークスもなく、白人かプエルトリカンかもなく、女としての連帯を見せているのです。61年版にはほぼ見られなかったジェンダーの問題を、スピルバーグは、同じストーリーでありながら、しっかりと入れてきているのです。
(エニーボディズを女扱いするのは間違いかもしれないですが、ここでは「差別される側のジェンダーの連帯」くらいの意味とさせてください)

なお下世話な余談ですが、アンセル・エルゴート君はウエストサイドストーリー撮影が始まったくらいの2020年ごろにMeToo告発されたのですが、その件はあの分厚いパンフレットに全く触れられていませんでしたが、大丈夫だったんですかね?アンセルは否定してるし、告発した女性も発言を取り下げたっぽいですが、なんとなくウヤムヤ。「まあまあ今は黙っといてくれないか。わかるだろ。ミスタースピルバーグが困っているんだよ。わかるね…」って感じだったら嫌だなあ

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【役者は当事者に】
そういえばエニーボディズについても2020年代的な背景を感じます。
61年版はまだかわいらしさがあったのですが、スピルバーグ版は「かわいらしさ」がほとんどなくて、それどころか警察署内で警官をぶっ飛ばすなど(やりすぎ感もあって笑ってしまいましたが)相当逞しくいというかリフくらいならぶっとばしそうな強さを感じます。
パンフレットを読んで知ったのですが、今回はエニーボディズのジェンダーについて、制作陣は考えた結果、エニーボディズをトランスジェンダー(この場合は産まれの性は女性だけど、自身を男性と認識している、いわゆるトランス男性)と定義し、演じたエズラ・メナスも、実際のトランス男性の役者というのです。

配役はできるかぎり当事者に、という現代アメリカ映画界の鉄則ですね。

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ちょい脱線しますが、エニーボディズついでに、61年版の「2つの疑問点」の2つ目が解消されていましたので、それについて少し。1つ目は前回書いた「トニーはいつマリアの家知った?」問題です。
二つ目は「チノはどこで銃を手に入れた?」問題です。61年版だとエニーボディズが「あたいが嗅ぎ回っていたらチノの奴が銃を持ってさ」…と説明していたのです。61年版では台詞処理で片付けていたものを、きちんとエニーボディズの嗅ぎ回りの場面とチノが銃を持つのを目撃するシーンをサスペンス風演出で映像化していました。
「クール」をトニーとリフの銃の奪い合いシーンに使ったりしたことの伏線回収にもなっているわけです。前回「クール」の曲順に苦言を呈しましたが、物語における銃の扱いだけに限定すればあの位置での「クール」もありでした。
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話を戻して…
61年版は素晴らしい映画で、何があろうと傑作としての地位は揺るぎません。しかしながら、仮に61年版と全く同じようにリメイクしたら、それは方々から批判が来るのです。
シャークスの配役もそうです。
私は61年版でジョージ・チャキリスが演じたベルナルドは人類史上最もかっこいい男だと思っています。しかし彼はギリシア系の白人です。そもそも61年版はリタ・モレノだけが「本物」のプエルトリコ系で、彼女以外のシャークス側の面々はみんな白人でした。
今回は基本的にシャークスはみんなプエルトリコ系か、そうでなくてもラテン系の俳優を使っています。

こういうこと書くと、ポリコレに忖度しまくってるだけじゃないか。窮屈だなって思うかもしれません。スピルバーグと言えども時代の制約には逆らえないのか…と思うかもしれませんが、私は何となくスピルバーグはそれを制約とか窮屈とかには感じていないのではないか。むしろ、時代に即した、誰もが嫌な気持ちを抱かない、それでいて面白くて、社会のためになってしかもヒットする映画をつくることに使命感を感じているように思います。
なにかもう金は十分稼いだし、映画における賞や名誉もとりつくして、あとは社会のために(彼の理想のリベラルな社会のために)尽くそうとしている気がします。
撮影時の大統領はトランプだったので、逆行し出したアメリカへの警鐘の意味もあったかもしれません。音楽録音の際にバラク・オバマを招待したってところにもその辺の彼の政治性を感じます。

そんなあれやこれや含めて、あのウエストサイドストーリーを、2022年の今、スピルバーグが作った意味を考えました。
何をどう言っても61年版の素晴らしさは微塵も揺るがないのですが、やはりスピルバーグ、ただのリメイクでは済ませないすごい人です。

久しぶりにいっぱい映画のこと考えました。スピルバーグ映画はなんだかんだで語りたくなる事が多くて良いですね!
それではこんなところで!
また素晴らしい映画でお会いしましょう!

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