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映像作品とクラシック音楽 第12回 「ヴェニスに死す」

2021-04-16 10:00:00 | 映像作品とクラシック音楽
前回の『ツィゴイネルワイゼン』に続いて難解映画シリーズですw
クラシック音楽が印象的だった映画といえばやっぱり外しちゃいけないのが『ヴェニスに死す』(1971年 ルキノ・ヴィスコンティ監督)です。

この映画では、マーラー交響曲第5番の第4楽章アダージェットが効果的に使われています。
このアダージェットはマーラー全曲中もっとも有名な曲ではないかと思いますが、この曲がそんなに有名になったのは「ヴェニスに死す」の影響が大きいのではないでしょうか?

とにかく最初と最後はもちろんのこと、劇中でも数回使われ、毎回フルサイズに近いくらいの時間流れます。印象に残らないはずないのです…が、こうしたクラシック音楽の免疫を持たない人には長すぎて苦痛に感じたり、あるいは何も起こらない上に心地よい曲がかかってるからぐーぐー眠ってしまったりする危険な映画でもあります。

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私が「ヴェニスに死す」を初めて観たのは学生の頃でした。映画研究会のみんなと深夜に酒飲みながらビデオで観てました。
男女で分けるのは間違いかもしれませんが、その時、私も含めた男たちは概ねぐったりした感じで「苦行のような映画だった…」と言い、女たちはむしろテンション上がって面白かったギャ〜とか言ってました。
女性というのはどうしてこんなにも感受性が豊かなんだろう?と思ったものです。
だいぶ大人になってから変に少女漫画にハマって色々な少女漫画の名作を読んでいた時期がありましたが、その時に謎が解けた気がしました。
女たちは幼いころから「ベルサイユのばら」とか「ガラスの仮面」とか読んで「千の誓いがいるか?万の誓いが欲しいか?俺の言葉はただ一つ。命をかけたこの言葉をもう一度言えというのか?愛してる!」なんてセリフにひぇ〜とか言ってたわけです。感受性の塊みたいな生き物に育つわけです。
一方同じくらいの歳頃の男子どもはと言えば「私の戦闘力は53万です」とか「アタタタタタ!」「ヒデブ!」とかってのを読んでいたのです。そりゃ馬鹿ばっかり育つ、あ、いえ、感受性が育まれないはずですよ。

話が完全に脱線しましたが、若い頃にはクラシック音楽が延々ながれ合間合間に難しい台詞が飛び交い、観ることが苦行にしか思えなかった「ヴェニスに死す」も今見返すと、それはそれはだいぶ楽しめました。歳を取るというのも悪くないものです。四半世紀くらいかけてやっと当時の女子に追いつきました。

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繰り返しになりますが、「ヴェニスに死す」はマーラー5番のアダージェットが効果的どころか、アダージェットのために作った映画と言っても良い作品と思います。

本作の主人公はダーク・ボガード(私にとっては『遠すぎた橋』の大失敗パラシュート作戦の責任者ブラウニング中将の人です)演じる、高名な作曲家で指揮者のグスタフです。
名前といい職業といい、ちょっとキレやすい性格といい、死の影に怯えているところといい、この人物はマーラーをモデルにしているんだな…とマーラーのマの字も知らなかった学生のころの自分と違い、この主人公キャラの設定がすぐわかり、それだけで映画を観るモチベが上がります。マーラー好きにしてくれた歳月に感謝です。
ダーク・ボガードの風貌もどことなくマーラーに似てます。


体を壊し静養のためヴェニスを訪れるオープニング場面で「アダージェット」がじっくりとかかります。クラシック好きじゃない人だと耐えられないくらい長いですが、好きな人ならどっぷりとハマれます。 

私は映画のオープニングというのは、その映画全体を象徴するシーンであるべきと思っています。
水の都ヴェニスに船で乗りつけるこの場面は単に物語の始まりというだけの意味ではありません。海のイメージは、母なる胎内への回帰であり、童心あるいは純朴さへの回帰という物語全体に対するメタファーです。
そして母の胎内にもどるイメージの映像に重なる美しい音楽は、人間から全てを剥ぎ取ってそこに残るものは「美」であるということを伝えていると思うのです。

そして、学生のころ何言ってるのかさっぱり理解出来なかった、回想シーンでのグスタフの友人でやたら攻撃的で哲学議論をふっかけてくる奴の台詞が、今聴くとこの映画の心臓というか背骨に当たる様な重要な発言である事がわかりました。

あの男が設定上ほんとに実在する友人なのか、妄想の産物なのか、グスタフの別人格なのか、あるいはグスタフを惑わしたぶらかす悪魔的な奴なのかわかりませんが、まあ要はあの男が言ってる事は、音楽で美を表現することなどできるのか?できるにしても真の美にはかなわないのではないか?という哲学議論をふっかけているのです。
曰く、自然の美、西洋的に言うなら「神が創りたもうた美」という自然界に初めから存在する美と違い、音楽というものは自然には存在しない音階の組み合わせで人間が勝手に作り出したものに過ぎない。そんなものが果たして神の美を表現し得るのか?…と問うてくるのです。

そしてこの映画はその問題提起に対して明確な答えを出します。
できる …と

映画は神の美として、ヴェニスの美しい渚を見せ、そして絶世の美青年(ビョルン・アンドレセン)を写します。
その一方でヴェニスの街に疫病が蔓延り、街は荒廃してゆき、絶世の美青年も命の危機に晒されます。「美」の死です。
グスタフは大人の汚れた心を、純朴な子供時代に帰っていくことで浄化して行き、引き換えに衰弱しては行くのですが、余計なものを浄化しきった先にあの美しい「アダージェット」が心に響くのです。
彼は魂の汚れなき崇高さによって美を死から救いました。
アダージェットは、神が作った美であるヴェニスの渚にたたずむ美青年を見事に表現し得たのです。



音楽は美を表現し得ることを悟る一方で、自らはヴェニスに死すのですが、グスタフは音楽という芸術の底知れない強さを知り、悔いなく死んでいくのです。
あるいは魂を燃やし尽くして美を表現する曲を作り出すその行為が、究極の「美」であるという悟りに達したのかもしれません。

で、あるならマーラーの9番の方が本作のテーマには向いてる気もしますが、そこは楽曲自体の美しさから5番のアダージェットを選んだというところでしょう。


マーラーの交響曲ってどれも躁と鬱を繰り返して最後に回答を出すと言うか、「解脱」するような印象を持ちます(ずっとお花畑な4番は例外ですが)。
解脱というと東洋的すぎてユダヤ人マーラー的でもカトリック教徒マーラー的でもないのですが、なにかそんな言葉を使いたくなるような東洋的諦念のような世界観をマーラーの音楽には感じます。
「ヴェニスに死す」のラストも煩悩を取っ払った悟りのような東洋的世界感を感じました。マーラーの音楽が余計にそう思わせているのかもしれません。

なお、「ヴェニスに死す」というとアダージェットばかり思い出しますが、マーラー交響曲第3番の4楽章のアルトの歌曲部分も使われています。グスタフが美青年に心奪われる場面で、そこも印象深いシーンです。

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本作のマーラーですが、クレジットによるとフランコ・マンニーノ指揮、聖チェチーリア・ナショナルアカデミーオーケストラ演奏となっております。
うーーん…全く知らないオケと指揮者です。しかし本作のアダージェットは世紀の名演のように聞こえます。映像との相乗効果がそう思わせるのでしょうね。


 
私はマーラー5番のCDは一枚しか持っておりません。サイモン・ラトルのベルリンフィル就任記念コンサートの録音です。実は初めて買ったマーラーでした(バーンスタインの1番と一緒に買ったのですが)
最初に買ったのがラトルのマラ5で良かったと思ってます。
もっともマラ5って他にYouTubeでアバドとかカラヤンとか色々聴きましたが、ハズレがないような印象です。
きっとそれくらい完成度の高い曲だからなんでしょうね。
あるいはアダージェット聞けば他の楽章がイマイチでも満足出来てしまうからかもしれませんが。


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ちなみに『ヴェニスに死す』で絶世の美青年を演じたビョルン・アンドレセン君ですが、2020年にホラー映画ファンの心を鷲掴みにした最恐最狂悶絶恐怖映画『ミッドサマー』に出演しています。いいじいさんになってたわけですが、前半のあるシーンで、観るもの全てを阿鼻叫喚な恐怖のどん底に叩き込んでくれます。ある意味でヴェニスに死すよりもっと心に残ります。
絶世の美青年からトラウマ爺さんに…
その姿、ダーク・ボガードが観たら絶望のあまり死ぬぞ。
『ミッドサマー』大傑作ですけど怖すぎて死ぬかもしれないので自己責任でご鑑賞ください。
観て死ぬなら『ヴェニスに死す』の美しいビョルン君の方がいいですね。

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