英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

評価に関する考察その1

2017-11-03 19:37:00 | 日記
評価を軽視する気はありませんが、多くの時間に追われる教員にとって、一度の授業で何十人もの生徒を相手にきっちり評価しようとするのは正直かなりしんどいものです。最近の風潮の中で気になるのは、授業中の生徒の活動をしっかり評価してやることが大事だ、という風潮です。一見理想的だし、不老不死の身体を手に入れたらぜひがんばりたいのですが、果たしてそれは可能なのでしょうか。

例えば、我々は授業案を書く際、評価の観点を書くのですが、「コミュニケーションへの関心・意欲・態度」の項目に「机間巡視」と書いてあるのをよく目にします。ちなみに私はこの「机間巡視」による評価はほぼ行いません。もちろん机間巡視は行いますが、評価はまずしません。というか、本当に評価している先生をほとんど見たことがありません(が稀にいます。頭が下がります。足を向けて寝れません。)。しかし、恐らく評価していないであろう机間巡視を評価に加えるのは、なぜか授業案の定番で、これを外すと戦犯扱いでも受けるかのようです。評価を行っているのなら書いてもよいのですが、行っていないものを書くのは反則でしょう。さらにいえば、机間巡視で生徒の様子を評価するのに私はそもそも反対です。まず一つ目の理由として、コミュニケーション活動の一場面で活動をサボっており、その時にたまたま教員がそれを発見したとしても、それで評価を下げるのでは絶対に公平性を保つことができないと思うからです。だいたいこういったことで評価を下げられるのは、教員の目がいきやすい目立つ子です。実は目立たない子の中にもやっていない子がいたとしても、それには教員は気づきにくいのです。逆にコミュニケーションを積極的にとっていると思われる子を机間巡視で発見するのも不可能です。聖徳太子ならば別ですが。結局教員が見ることができるのは、コミュニケーションのごく一部でしかないのです。

もうひとつ、机間巡視で評価するのに反対である理由として、コミュニケーション活動を真剣に行わない生徒がいる場合、その理由を生徒のせいにすること自体が間違いだと思うからです。つまりコミュニケーション活動が成功しないのは教員の責任ではないか、と思うのです。コミュニケーション活動がうまくいかない時には、クラスでコミュニケーションを取りやすい雰囲気作りができているか、生徒たちに無理強いしていないか、発達障害などの生徒にどのように配慮しているか、振り返るべきなのは教員の側であって、ほとんどの場合生徒の責任ではありません。私自身、コミュニケーション活動がうまくいかない時には、だいたい生徒の能力を越えるような活動を行ってしまい、適切な足場がけ(Scaffoldingといったりします)を与えていないのです。反省すべきは私自身です。

だいたい机間巡視は「コミュニケーションへの関心・意欲・態度」として評価されています。しかし個人的には、そもそも関心・意欲・態度がなぜ生徒の評価に必要なのか、かなり疑問です。例えば発達障害の子がうまく他者と共働できない時に、それは誰の問題なのか。苦手なこと、できないことを強制され続けるのも辛いものです。もちろん周りの生徒のアシストでなんとか活動を成立させ、それが「成長」に繋がるとしても。我慢し続けることはその生徒同士にとって幸せなことでしょうか。もっとも教師が勝手にうまくコミュニケーション活動ができないのはお前の責任だ!と叱責して解決するのなら楽な話ですが。この辺を、クラスの状況に応じて騙し騙しやるのは教師の業であって、生徒に責任はないと思います。

話は少し変わって、一度の授業の中で、評価の観点が複数あるのは、理想ですが現実的ではありません。例えば課題を与えて授業の終わりに集めて評価するのも、理想ですが教員の負担が大きすぎます。もちろん中には遅くまで学校に残ってしっかりとやられている先生もいて、それはそれで尊敬しますが、やっていないからといって「教師たるもの生徒のプリントはしっかり集めて評価するのが使命だろう」とかいう議論になるとしたら違和感を感じます。仕事に生きる人は生きればよいですが、それを人に押し付けるのは間違いです。仕事は仕事、でもプライベートの時間も大事、という考えも同じように認められるべきです。放課後は部活に追われ、ただでさえ忙しい教員が、その日に行った100枚のプリントを評価するのは、評価のポイントをいかに絞っても大変なものです。せいぜい各Lessonの終わりに一度程度で充分評価の材料になります。

多忙な日本の教員が、無理なく評価できるシステムを構築するか、そもそもの多忙を解消する政策を行うか、どちらかが必要だというのが実感です。