[Capricious Model Rail Factory] ** 気まぐれ鉄道模型工房 **

European/British/Japanese railway modelling in OO/HO/N

英国通信 21

2017-07-30 11:33:07 | [jp] 写真

Durham駅を蒸機列車が通るというので、カメラ担いで行ってみた。

Class A3 60163 "Flying Scotsman"  結構な速度で通過したので被写体ブレしてしまった。英国蒸機は侮れない。

練習で撮ったTranspenine Exp Class 185 DMU。

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キングスホビーN鋼製客車キット組立 4

2017-07-25 06:36:55 | [jp] 鉄道模型 日本型N

暫く模型の記事が無かったが、あちこち出張したり出掛けたりしていた。合間に細々と組んではいた。

ハンダ付けが終わり、次は塗装だが、分工場に塗装設備が無いため、とりあえずここまでとする。

スイテ37000。出来の良いプラ製ガラベンは数が限られるので、展望車に優先使用。

スシ37740。 

マロネフ29 1~。プラ床板仕様キットは妻板もプラ部品なので、金属部分の塗装後に接着する。

次は大型木製客車キットに着手する。

 

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猫のいる宿 (英国編)

2017-07-23 21:18:05 | [jp] 旅行

突然だが、実は猫が好きである。海外勤務がある様な仕事なのと、嫁が動物苦手(というか飼うのに抵抗あり)なので飼ってないが。猫が近くに居るのは気配で判るし、猫カフェや猫付きで有名な場所は一応行ってみる。新城(Newcastleとも言う)に猫カフェがあると聞き、入り浸ったりもしている。

ググル地図で近隣の街を見ていたら、猫のいる民宿(英国ではBed & Breakfastと言う)を見つけてしまった。これは行くしかないということで、行ってみたら想像以上の宿だった。車で1時間強の、牧場に囲まれた山間の集落にある。こんな所でも、昔は鉱山があって鉄道が通じていた。

 

宿は猫好きの老婆が一人で切り盛りしている。ちょっと前まで予約サイトに登録していたそうだが、ネット予約受付が面倒になり、最近電話予約だけにしたと。興味のある方は看板↑で検索して電話して頂きたい。因みに車でないと行けない場所。日本人は2組目だそうだ。 

 

全景はこんな感じ。羊の牧場に囲まれていて、メェ~メェ~煩い。小生が鳴き真似して煽ったりするので、嫁がウルサイ!と切れかけていた。

居間に通されて寛いでいると、大小様々な猫様が入れ替わり立ち代わりで挨拶に来られる。

そのうち、大きい猫様に膝に乗られてしまった。重いんですけど。爪も痛いんですけど。

更に足の上で香箱状態。身動き出来ない。

猫語で世間話。「ふんふん、それで?」

やっと解放してもらい、庭に出て羊を眺めていると、(こっち見んな!)

また次々に猫様がやって来て、

一緒にまったり羊見物。

 

寝室にも猫様が来られてチェックが入る。

そこ俺の寝る所なんですが・・・

翌朝、食堂で。 「何食べてん?」

 しっぽフサフサ。

窓の外では茶トラ猫様が、

朝のお化粧タイム。

 結局何匹いたか数え切れなかった。一晩すっかり楽しませて頂きました。また仕事で落ち込んだら猫様に癒して貰いに来よう。

 

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Durham地方の鉄道史 4

2017-07-21 19:13:52 | [jp] 歴史

各種文献から、この辺りにあった機関車牽引による鉄道路線について書き出してみた。他に炭鉱の専用線やIncline (鋼索式)の路線もあったが、多過ぎるので代表的な路線のみ記載。路線名称も沢山出てくるので、番号を付けてみる。

ネットで詳しい路線図を見つけた。

こっちは廃止区間も含めた路線と、道路、河川を描いたもの。マス目をクリックすると拡大。最初からこの地図を見ていたら、文献を読むのが楽だったのだが。

https://sites.google.com/site/waggonways/railways-durham

こっちは鉄道路線と炭鉱を描いたもの。これもクリックすると拡大。炭鉱だらけで、毛細血管の様に専用線が敷き詰められていたのが判る。

https://www.dmm.org.uk/maps/1898-00.htm

以下の建設慨史と地図を見比べて貰うと、どこをどう繋いだかが判って頂けると思う。

 

Stockton & Darlington鉄道 [1]

1825年にAucklandから現在のDarlington North駅を通ってStockton付近のTees河港まで開業。1830年にTees川を渡ってMiddlesbroughへの支線を開業。1846年に海沿いのRedcarまで延伸。

子会社Bishop Auckland & Weardale鉄道 [2]を設立し、Shildon付近のSohoから、1842年にSouth Churchまで、1843年にCrookまで延伸開業。Weardale Extension鉄道がその先Waskerleyまで延伸したが、1847年に買収。Bishop AucklandからRedcarまでの区間は現存。

 

Clarence鉄道 [2]

当初Tees & Weardale鉄道として計画されたが、後にClarence公(後のWilliam4世王)に肖って改名された。

1833年にAycliffeとTees川北岸の新港Port Clarenceを結ぶ路線を開業。途中で北に分岐してDurhamに向かう路線も認可されたが、難工事で資金が枯渇し、1834年に途中のFerryhillまで開業。1841年までに周辺の炭鉱への支線を建設。S&D鉄道[1]と競合していた。

North Eastern鉄道[3]に統合後、1915年にShildonからTees川南岸のNewport Yardまでを試験的に直流電化し、石炭列車を電機牽引に切り替えたが、第一次大戦後の不況で貨物輸送が激減し、1930年に電気運転を中止、電化設備を全て撤去し、蒸機牽引に戻した。後に路線自体も廃止。この話は別に詳しく書きたい。

 

Stanhope & Tyne鉄道 [4]

1834年5月にStanhopeからAnnfieldまで開業し、その年の9月にTyne河口のSouth Shieldsへ延伸された。沿線の高原に位置する街Consettは17世紀から製鉄が盛んな所で、産業革命期に原材料、製品の大量輸送のため鉄道が必要とされたが、Team川の渓谷から一気に標高270mまで登るため、急勾配路線を多数のIncline (鋼索式鉄道)で運行。建設、運行の過大なコストが経営を圧迫し、1841年に会社解散。 

 

Pontop & South Shields鉄道 [5] 

S&T鉄道[4]解散後、東の区間、LeadgateからSouth Shieldsまでを買収。NE鉄道[3]に統合後、Incline (鋼索式鉄道)区間を順次機関車牽引可能なルートに付け替え。

 

Durham & Sunderland鉄道 [6] 

1836年7月にSunderlandとPittingtonの間の本線、Haswellへの支線で鉱物輸送、その年の8月に旅客輸送を開始。1839年にShincliffeまで延伸。

 

Durham Junction鉄道 [7]

1838年にS&T鉄道[4]のWashingtonからRaintonまで開業。

 

Brandling Junction鉄道 [8]

1839年にGatesheadからSunderlandまでの本線と、South Shieldsまでの支線を開業。

 

West Durham鉄道 [9] 

1840年6月にWillingtonからByers Greenまで開業、10月にWhitemee炭坑(Crookの北)まで延伸。

 

Great North of England鉄道 [10] 

YorkとNewcastle を結ぶ目的で設立。1841年1月にYorkからDarlingtonまでの貨物輸送、3月に旅客輸送を開始。後にECML(東海岸本線)となる。Richmondへの支線を1846年に開業。

 

Newcastle & Darlington Junction鉄道 [11]

1844年にDJ鉄道[7]のRaintonからDarlingtonまで開業。Darlingtonの北でS&D鉄道[1]と平面交差。この鉄道の開業によりYork、DarlingtonからLeamsideを経由してTyne川南岸のGateshead までレールが繋がった。Durham Gilesgate駅までの支線も開業し、Durham市街に最初の駅が開設された。DarlingtonからFerryhillまでの区間が後にECMLとなる。

1845年にDJ鉄道[7]を、1844年にBJ鉄道[8]を併合。D&S鉄道[6]、P&SS鉄道[5]を1846年に併合。その年7月の法令により、GNoE鉄道[10]の経営を移管された。

 

Wear Valley鉄道 [12]

1847年にBA&W鉄道[2]との分岐点からBishopley Quarryまで開業。NE鉄道[3]に統合後、1895年にWearheadまで延長。一部が保存鉄道として残存。S&T鉄道[4]解散後、西の区間、StanhopeからConsettまでを買収。

 

Darlington & Barnard Castle鉄道 [13]

Darlingtonの北HopetownでS&D鉄道[1]から分岐しBarnard Castleまでを1856年に開業。1858年にS&D鉄道[1]と合併した。

 

South Durham & Lancashire Union鉄道 [14]

1861年にBarnard CastleからPennine山地を越えてTebayまで開業。S&D鉄道[1]と提携し、Durhamの炭鉱から西Cumberlandの製鋼所へコークスを運搬。1863年にWest AucklandからBarnard Castleまで短絡ルートを開業。一部が保存鉄道として残存。

 

North Eastern鉄道 [3]

1854年に、各社のYorkからDarlington、Newcastleを経由しBerwick upon Tweedまでの本線と支線群を統合し設立。S&D鉄道[1]とは競合関係にあった。

1856年に旧N&DJ鉄道[11]のLeamsideから現Durham駅を経由しBishop Aucklandまで開業。Darlington - Gateshead間の迂回ルートを形成。Bishop Aucklandは5方面の路線が集中し、三角形のホームを擁する主要駅となった。

1862年にDurham南のRelley Mill分岐点からConsettまでの支線を開業。

1868年にDurhamからGatesheadまでの最短ルートを開業。後にECMLとなる。

1871年にRelley Mill分岐点からFerryhill北のTursdale分岐点まで開業。これでやっと現在のECMLルートが完成。

1887年にDarlington南からS&D鉄道のStockton方面に抜ける路線を開業し、Darlington北での平面交差を解消。

1906年にTyne川にKing Edward VII橋を架橋し、直通列車のNewcastleでの方向転換を解消。

1923年の鉄道再編で、S&D鉄道[1]と共にLondon & North Eastern鉄道(LNER)に統合。

  

Tanfield鉄道 [15]

1839年にTanfield Lea炭鉱とTyne河畔のRedheughの間の木製レールWaggonwayを鉄道に改良。一部が同名の保存鉄道として残存。Waggonwayは18世紀から存在しており、現存する世界最古の鉄道(railway)、と称している。

 

Bowes鉄道 [16]

1826年から1855年の間に、PontopとJarrowの間の本線と周辺の炭鉱への支線を建設。急勾配を多数のIncline (鋼索鉄道)で運行。一部が同名の保存鉄道として残存。

 

この辺りの殆どの街に鉄道駅があったことになる。駅跡はショッピングセンタになっていたりするが、廃線跡は結構残っている。最盛期は石炭と炭鉱労働者の輸送で繁盛していたのだろうが、現在の長閑な風景からは想像出来ない。

DarlingtonからBishop Aucklandを経由しDurhamに至る路線が現存していたら、職場近くに駅があって通勤に使えたのだが、残念。現在のECMLルートよりちょっと遠回りしていたのと、Shildon北方のトンネルの断面が小さくて複線を単線にしてしまい、ボトルネックになっていたのが敗因。 

 

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Durham地方の鉄道史 3

2017-07-11 19:35:06 | [jp] 歴史

鉄道黎明期のこの辺りでの出来事が、Durham Railways (Charlie Emett著、The History Press発行、1999初版、2009第2版)に書かれている。 

”鉄道の時代は、1822年5月23日木曜日の午後に、300人の人夫が地元の役人が乗った車両を歓声を上げてDarlingtonに向けて引きながら始まった。その役人は、DarlingtonでStockton & Darlington鉄道の最初のレールを敷いた人物だった。” 

”何世紀もの間、”rail”という単語は、木の板を意味するのに用いられていた。木の板をでこぼこの地面の上に並べて置いて、石炭車の走行を容易にするために使われるようになると、この木の板がrailと呼ばれるようになり、rail-wayという語句が創られた。tramway、plateway、waggonway等の類語も創られ、これらは実質的にrailwayと同義だったが、細かい違いもあった。Tramwayは平らな踏面の車輪を転がす傾斜したplatewayを指し、railwayはフランジを付けた車輪のための異なる構造の軌道を意味するようになった。初期のrailwayは私有で、所有者自身の土地で、所有者が自身の商品を運ぶためだけに使った。”

”1804年に、Durham郡でWylam炭坑を所有していたBlackettが、1台の機関車をGatesheadのJohn Whinfieldに造らせた。それはわずか4.5トンで、フランジ付き車輪を履いていた。Blackettは、この機関車が彼の炭鉱の木のレールには重すぎると気付き、車輪を外して工場の動力に転用した。1808年に、彼のWylam炭坑鉄道の木のレールがすり減ったとき、Blackettは鋳鉄の板状レールに交換した。そして、炭坑長William Hedleyは、4人の男が手回しハンドルで駆動する4輪車両を造った。この実験は失敗だったので、Hedleyは蒸気機関を取り付けた。これは一応動いたが、蒸気不足に悩まされた。”

”Hedleyが設計し、Wylam炭坑の鍛冶屋Timothy Hackworthが製作した2台の大きな機関車、Puffing BillyとWylam Dillyが、1年後に完成した。それらはおよそ8トンで、鋳鉄板レールには重すぎたため、車輪を8輪に増やして荷重を分散させた。この機関車は満足に動いた。鋳鉄板レールが錬鉄レールに交換された際に、機関車はオリジナルの4輪車に改造された。雇用主に日曜日に働くことを咎められたHackworthはWylam炭坑を去り、更なる経験を他で積んだ後に、Stockton & Darlington鉄道の機関車を設計、製作する仕事を得た。蒸気機関車の設計は着実に発達したが、荷車は馬が引くものと基本的に同じままだった。”

”George Stephensonは1781年にWylamで生まれ、Killingworth炭鉱で働き、蒸気機関夫に昇進した。石炭を速く運搬する手段の必要性を理解し、彼は1814年6月に移動式蒸気機関を製作し、Bluherと命名した。それは、30トンに達する8台の荷車を時速4マイルで牽引できた。彼は、製鉄業者でWalter製鉄所を所有していたDoddとLoshと共同で、歯車付きの車輪をチェーンで駆動する蒸気機関車を開発した。これは、Georgeが設計した機関車の特長になった。”

”Stockton & Darlington鉄道は1825年9月27日に公共交通機関として正式開業した。蒸気機関車No.1が26台の貨車、客車を牽引し、West Auckland付近からStocktonまでの21マイル(約34km)を運行した。この開業が、その後世界中に流布する鉄道システムの様式を決めることになった。その年の初め、1月1日に、George Stephensonと彼の息子Robertは、鉄道システム設計と路線調査活動を開始していた。George、Robert Stephensonと彼らの協力者は、この時既に機関車製造業者と鉄道技術者として認知されていた。鉄道はひとつの産業を形成し、地場産業の需要を越えた鉄道システムの拡大はこの時始まった。”

"しかし、全ての出生には痛みを伴う。Stockton & Darlington鉄道の機関車の製造は一旦中止された。華々しく開業したものの、すぐに生みの苦しみに悩まされることになった。1ヵ月も経たずに、貨車の不足に直面した。運用中の150台の貨車は、これまでに製造されたものの中で最悪の部類であった。”

”1826年5月までに、同社は同じ型の4台の機関車を導入した。彼らは日常的に20~24台の貨車を牽引でき、Brussleton PlaneからStocktonまで4時間で、最大92トンの貨物を輸送した。週あたり500~600トンを牽引し、これは同じ条件下で12~14頭の馬の仕事に匹敵した。しかし、勾配には弱く、しばしば機関車は立ち往生し、蒸気が上がるのを待たなければならなかった。性能不足は未熟な機関士の誤った運転によるものもあったが、結局これらの機関車は輸送需要に応える能力がなかった。事態を重く見た鉄道経営者は、1827年に全ての機関車を運用から外し、列車を馬に牽かせる決断を強いられた。しかし、1830年に、Hackworthは新たに旅客列車専用の機関車を設計した。R. Stephensonによって造られ、Globeと命名された機関車は、正しく使えば時速50マイル(80km/h)に達することができた。機関車の改良が進み、1832年までに馬力による運行は不適切とされ、1833年8月に、馬はStockton & Darlington本線では使われなくなった。”

こんな状況ではあったが、Stephenson父子により鉄道建設は着々と進められ、1830年にはLiverpool & Manchester鉄道が開業している。機関車で苦労していたため、開業に際し機関車の技術コンペ(有名なRainhill競争)を催し、高性能な機関車を探したのも頷ける。

 

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英国通信 20 Royal Border Bridge

2017-07-09 20:03:05 | [jp] 鉄道施設

世界で最も叙情的な鉄道構造物、と言われる、Royal Border Bridgeを見て来た。

この橋は、EnglandとScotlandの国境の街、Berwick upon Tweedにあり、Tweed川を28連の石造アーチで越えて、北岸のBerwickの街に達している。Berwickは城塞都市で、旧市街は函館五稜郭の様な防塁に囲まれていて、防塁は今でもほぼ完全な姿で残っている。城は防塁の外にあったが、城跡に駅が造られている。

橋はTweed川を南北に渡っている。南岸側には橋を見渡せる場所は無く、写真は横からか北側から撮るしかない。駅の近くに展望台があるが、北東からのアングルになり、夏場の早朝でないと順光にならない。よって今回わざわざ前泊した訳だが、生憎の曇り空で、満足な写真は撮れなかった。

 (写真はクリックで拡大します)

日曜の早朝で列車本数も少なく、効率も悪かった。IEPの運行が始まったらここに撮りに来ることにし、今回はその練習ということにしておく。見応えのある橋なので、行っただけのことはあった。夜はライトアップされるらしいが、そういった演出は余り好きでは無い。

因みに、この橋は、York, Newcastle & Berwick鉄道により1847-1850に3年以上掛けて建造されたもの。1846年にNorth British鉄道によりBerwickからEdinburghまで開通していたので、この橋の完成によりLondon - Edinburgh間のレールが繋がった。

 

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Durham地方の鉄道史 2

2017-07-02 22:12:38 | [jp] 歴史

 居住地周辺の鉄道路線を色々調べているのだが、馴染みの無い地名ばかりで、文章読んでいるだけでは訳が判らないので、文献に載っていた路線図にマーカで色分けしてみた。

 出典は 前回と同じくEastern main Lines Darlington to Newcastle via Durham [Roger R Darsley]。青く塗った路線が現存していて、点線は保存鉄道。前回書いた通り、東西方向の路線がすっかり廃止されている。この路線図に描かれている線の他にも、炭鉱への支線、専用線、鋼索鉄道が多数存在したが、割愛されている。 

図中CollyとあるのはCollieryの略で、炭鉱のこと。輸送手段といえば馬車と船と鉄道しか無かった時代、多数の炭鉱から石炭を消費地に輸送するのに必死になっていたのが見て取れる。

Stockton & Darlington鉄道の最初に開業した区間は、所々付け替えられたりしているが、ほぼ現存し閑散ローカル線として細々と営業している。Liverpool & Manchester鉄道の路線も同様に現存。国鉄末期に北九州のローカル線の乗りつぶしに苦労したが、この近辺も旅客列車が1日数本しかない路線ばかりで、結構大変だっただろうな、と思う。 

 

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