鉄道黎明期のこの辺りでの出来事が、Durham Railways (Charlie Emett著、The History Press発行、1999初版、2009第2版)に書かれている。
”鉄道の時代は、1822年5月23日木曜日の午後に、300人の人夫が地元の役人が乗った車両を歓声を上げてDarlingtonに向けて引きながら始まった。その役人は、DarlingtonでStockton & Darlington鉄道の最初のレールを敷いた人物だった。”
”何世紀もの間、”rail”という単語は、木の板を意味するのに用いられていた。木の板をでこぼこの地面の上に並べて置いて、石炭車の走行を容易にするために使われるようになると、この木の板がrailと呼ばれるようになり、rail-wayという語句が創られた。tramway、plateway、waggonway等の類語も創られ、これらは実質的にrailwayと同義だったが、細かい違いもあった。Tramwayは平らな踏面の車輪を転がす傾斜したplatewayを指し、railwayはフランジを付けた車輪のための異なる構造の軌道を意味するようになった。初期のrailwayは私有で、所有者自身の土地で、所有者が自身の商品を運ぶためだけに使った。”
”1804年に、Durham郡でWylam炭坑を所有していたBlackettが、1台の機関車をGatesheadのJohn Whinfieldに造らせた。それはわずか4.5トンで、フランジ付き車輪を履いていた。Blackettは、この機関車が彼の炭鉱の木のレールには重すぎると気付き、車輪を外して工場の動力に転用した。1808年に、彼のWylam炭坑鉄道の木のレールがすり減ったとき、Blackettは鋳鉄の板状レールに交換した。そして、炭坑長William Hedleyは、4人の男が手回しハンドルで駆動する4輪車両を造った。この実験は失敗だったので、Hedleyは蒸気機関を取り付けた。これは一応動いたが、蒸気不足に悩まされた。”
”Hedleyが設計し、Wylam炭坑の鍛冶屋Timothy Hackworthが製作した2台の大きな機関車、Puffing BillyとWylam Dillyが、1年後に完成した。それらはおよそ8トンで、鋳鉄板レールには重すぎたため、車輪を8輪に増やして荷重を分散させた。この機関車は満足に動いた。鋳鉄板レールが錬鉄レールに交換された際に、機関車はオリジナルの4輪車に改造された。雇用主に日曜日に働くことを咎められたHackworthはWylam炭坑を去り、更なる経験を他で積んだ後に、Stockton & Darlington鉄道の機関車を設計、製作する仕事を得た。蒸気機関車の設計は着実に発達したが、荷車は馬が引くものと基本的に同じままだった。”
”George Stephensonは1781年にWylamで生まれ、Killingworth炭鉱で働き、蒸気機関夫に昇進した。石炭を速く運搬する手段の必要性を理解し、彼は1814年6月に移動式蒸気機関を製作し、Bluherと命名した。それは、30トンに達する8台の荷車を時速4マイルで牽引できた。彼は、製鉄業者でWalter製鉄所を所有していたDoddとLoshと共同で、歯車付きの車輪をチェーンで駆動する蒸気機関車を開発した。これは、Georgeが設計した機関車の特長になった。”
”Stockton & Darlington鉄道は1825年9月27日に公共交通機関として正式開業した。蒸気機関車No.1が26台の貨車、客車を牽引し、West Auckland付近からStocktonまでの21マイル(約34km)を運行した。この開業が、その後世界中に流布する鉄道システムの様式を決めることになった。その年の初め、1月1日に、George Stephensonと彼の息子Robertは、鉄道システム設計と路線調査活動を開始していた。George、Robert Stephensonと彼らの協力者は、この時既に機関車製造業者と鉄道技術者として認知されていた。鉄道はひとつの産業を形成し、地場産業の需要を越えた鉄道システムの拡大はこの時始まった。”
"しかし、全ての出生には痛みを伴う。Stockton & Darlington鉄道の機関車の製造は一旦中止された。華々しく開業したものの、すぐに生みの苦しみに悩まされることになった。1ヵ月も経たずに、貨車の不足に直面した。運用中の150台の貨車は、これまでに製造されたものの中で最悪の部類であった。”
”1826年5月までに、同社は同じ型の4台の機関車を導入した。彼らは日常的に20~24台の貨車を牽引でき、Brussleton PlaneからStocktonまで4時間で、最大92トンの貨物を輸送した。週あたり500~600トンを牽引し、これは同じ条件下で12~14頭の馬の仕事に匹敵した。しかし、勾配には弱く、しばしば機関車は立ち往生し、蒸気が上がるのを待たなければならなかった。性能不足は未熟な機関士の誤った運転によるものもあったが、結局これらの機関車は輸送需要に応える能力がなかった。事態を重く見た鉄道経営者は、1827年に全ての機関車を運用から外し、列車を馬に牽かせる決断を強いられた。しかし、1830年に、Hackworthは新たに旅客列車専用の機関車を設計した。R. Stephensonによって造られ、Globeと命名された機関車は、正しく使えば時速50マイル(80km/h)に達することができた。機関車の改良が進み、1832年までに馬力による運行は不適切とされ、1833年8月に、馬はStockton & Darlington本線では使われなくなった。”
こんな状況ではあったが、Stephenson父子により鉄道建設は着々と進められ、1830年にはLiverpool & Manchester鉄道が開業している。機関車で苦労していたため、開業に際し機関車の技術コンペ(有名なRainhill競争)を催し、高性能な機関車を探したのも頷ける。