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Durham地方の鉄道史 1

2017-06-18 10:22:20 | [jp] 歴史

元々、廃線跡とかに興味があり、宮脇先生の廃線跡本も全巻揃えて読み耽っていたが、英国でも当然その方面の研究が盛んで、書籍が多数発行されている。居住地、勤務地近辺に廃線跡が多数存在することから、色々書籍を読んでみたら、この地域は産業革命時代に世界の主要な鉱工業地帯として大発展を遂げ、鉄道網が発達していたと。1960年代に殆どの炭鉱が閉山となり、跡地は緑地、農地に戻され、鉄道も一部を除いて廃線となった。北九州でも同じ様な事になったが。

炭鉱、工場跡は緑化政策で整備されたが、廃線跡は今でも割と残っていて、ググル航空写真で見ると一目でそれと判る。一部は遊歩道として整備されている。

鉄道史関連の書籍に、この辺りの鉄道全盛期の写真が多数掲載され、今では信じられない様な光景が展開されていた。写真や図表をブログに転載するのは憚られるため、この辺りの鉄道路線盛衰史について、書籍の解説文を翻訳して紹介したい。

 

手始めに、Eastern Main Lines, Darlington to Newcastle via Durham (Roger R Darsley著, Middleton Press発行, 2007初版)の解説から、この地域の近代史について。

"Durham郡は3本の主要な川によって形成される。Tyne川は北端に接し、Tees川が南端である。Wear川はTees川と同様に、North Pennine山地のAlston地域の高地から流れ出る。"

"Durham郡の地下には、産業革命の揺りかごであったGreat Northern炭田が存在する。石炭層は、1½ftから10ftの厚さの連続した地層として存在した。Durham郡の西部ではこれらの石炭層は地表近くに来て、最高品質の石炭が産出された。これらの石炭は古くから採掘されたが、問題は炭鉱から3本の川の航行可能な区間まで搬出するための膨大な費用であった。"

"最初はwaggonwaysが、そして1825年のStockton & Darlington鉄道の開業後は、Durham郡で製造された蒸気動力鉄道が、石炭を西から東に輸送する主な経路となった。これは、Great Britain島の南北の大都市間を結ぶことを目的とする、英国の交通戦略に反するものだった。"

訳者注:Waggonwaysとは、鉄道が導入される以前に、荷車を人馬で牽くための木製レールを敷設した輸送路を指す。Durham郡は起伏が激しく、河川も急流で、運河に必要な水平面を確保するのが非常に困難だったため、英国の他の地域では主要な交通手段だった運河は殆ど建設されなかった。東西方向の路線は、Stockton & Darlington鉄道由来の線区が閑散支線として残っている以外、全て廃止されてしまった。

"Alston地域の傾斜した台地は、主に砂岩と石灰岩で形成される。この地域では鉛、石灰岩が採掘された。付近にある頁岩層は鉄鉱石の鉱脈で、それは石炭と石灰石と共に、この地域に大きな鉄鋼産業を引き起こした。"

"Durham郡は、19、20世紀に、英国の最も工業化、都会化された地域の1つになった。1866年にDurham郡は、世界の半分の石炭と英国の3分の1の鉄鋼を供給していた。しかし、大部分の製鋼所を道連れにして、1993年までにすべての炭坑は閉じられ、再開発政策により、郡の大部分は森林風景に戻された。"

訳者注:これは決して誇張では無く、石炭産業史料に依れば、この辺りには至る所に炭鉱があった。鉄鋼についても、Consett、Middlesborough、Sunderlandなどに大製鋼所とその関連企業があった。今では見る影も無いが。

"ECMLのDurham郡を貫く37マイルの区間は、Tees川上流のSkerne川沿岸にあるDarlingtonから始まる。北に行くに従い、Ferryhillで石灰岩の崖を突破し、Wear川とその支流を横切り、Team川の渓谷に沿い、Tyne川の深くて急な谷間を横切って北岸のNewcastleに至る。これらの地形を克服するために、8つの見事な高架橋と、Tyne川をまたぐ2つの高い橋を必要とした。"

訳者注:事実、ECML(東海岸本線)で北上すると、YorkからDarlingtonまでは平地をまっすぐ突っ切っているが、Darlingtonの辺りから曲線、橋梁、築堤、切通しが多くなり、建設が容易ではなかったことが窺われる。この書籍によれば、ECMLのこの区間は、炭鉱と需要地を結ぶ路線を経由するルートが幾つも存在したが、何れも遠回りしていて、最短経路を結ぶ線路を建設して現在のルートになったのは19世紀後半になってから。

 


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