ビンボー生活マニュアル

いかに安上がりに過ごすか

『津波がここ迄来る訳が無い』そう言われながら10年掛けて作った岩山の手作り避難所、70人の命救う。

2011-03-31 14:23:18 | 日記
現代版の『ノアの箱舟』みたいなもんか?

『松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30m程の岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板が有った。お年寄りでも上れる様に段差は低く、手摺りも有る。平らになった頂上には、8畳の小屋と東屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年程前から、退職金を注ぎ込んで1人で造った。「避難場所は家から直ぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。地震が有った11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると既に40人程がここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋が薙ぎ倒される音がバリバリと響いた。一旦波が引いた後、「第2波には耐えられない」と更に人がやって来た。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性等4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。避難者は70人程になり、お年寄りや怪我人は小屋でストーブを焚き、男性陣は東屋で焚き火をして夜を明かした。夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋や瓦礫で埋め尽くされていた。避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明が有った」と感謝する。一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれ迄「大きな津波は、建物では駄目。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えた事も有ったが、「佐藤山」は指定されなかった。 佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かって良かった」と喜ぶ一方、「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさも滲ませる。「佐藤山」には、元々有った山桜の他、枝垂れ桜や数々の山野草が植えられている。津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。「早く平和な日常が戻る様に」。佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。』

8畳の小屋と東屋で約70人を収容ですか。 東屋、庭園や公園に設けられた休憩用の四方の柱と屋根だけの小さな建物の事。まぁ、ここも広くても8畳、狭けりゃ4畳半。

畳のサイズは各規格毎に微妙に異なるが、まぁ我が家の畳を参考にすると、胡坐を掻いた状態で座ったとして、1畳当たり、大人8人は余裕で座れる。8畳の小屋だと8×8で64人は軽~く収容が可能。東屋が小さめサイズで6畳と仮定すると6×8で48人が収容可能。合計で100人以上は余裕で非難出来る計算。

展望台も有るし、他にもスペースは有るだろうからもっと大勢収容出来ただろうし、詰めればまだまだ人は収容出来たろう。

行政が指定した避難場所は津波に襲われ、避難民が多数犠牲になっている。避難場所に指定されなかった私設の『佐藤山』に逃げ込んだ人間が生き延びれたとは、なんとも皮肉な話だ。

恐らくは『佐藤山』の事を知っている近所の人達のみが避難して来たんだろう。

普段は佐藤善文氏の事を、影じゃキチガイ呼ばわりしたり、鼻で笑って暇人の道楽、とか、冷笑しながら酔狂な事をやっている変人程度にしか認識していなかった筈。

持ち主が避難する前に、既に40人程が避難していたとは…。溺れる者は藁にも縋るって奴だろう。

命拾いした方々、もう金輪際、佐藤氏には足を向けて寝られないぞ。

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