ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

番外編:人生はカラクリに満ちている

2018-06-14 14:44:58 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018念6月14日


数年前のこと、いつものようにメールチェックをしましたら、Facebookより、
「R.G. wants to be your friend」とある。
「ろ、ろぶ?ろぶって、ともだちって!アヒャヒャのオホホのウハハハハ!」

驚いたのなんのって、言い表しがたい感情が体内を駆け巡り、側にいて自分のパソコンを操っていた夫、わたしの異様な興奮振りをいぶかしがり、「大丈夫かい?」と心配顔。

大丈夫かいって?大丈夫じゃない、まったく大丈夫じゃない!だって、こんなことある?ええ、40年近くも音信不通でいた旧知の友から、ある日突然、別世界から来る葉書の如く、連絡が舞い込んできたのだから!

フェイスブックは日本語教室の生徒さんとの交流の場になるかも知れないと言うのと、もうひとつは、2010年のポルト市と日本の国際親善協会共催の大イヴェントJapan Weekのコーディネータをした際に、市のスタッフから宣伝になるから入ってイヴェントのことを広めてくれと勧められたのであった。結局FBに登録したのがJapan Weekも終了した後で、宣伝には何の役にも立たなかったのだが。

それがなんと、ツーソン留学以来、お互い音信不通になってしまっていたズッコケ仲間の一人からこうして連絡が入ろうとは。ロブとのエピソードは「アリゾナ留学記」で何度か書いてある。

実は他にもネットを通じてひょんなことから連絡がついた中学時代の親友、高校時代の親友、そして、昔のペンフレンドたちとの再会がある。どれも36年ぶりだとか40年ぶりだとかの再会である。

亡くなった写真家の星野道夫さんの「人生はからくりに満ちている」と言う言葉を、ホンマやなぁと、この歳になってつくづく、そして何度も近年は噛み締めているのである。

もうひとり、10代の時のペンフレンドのお嬢さんともフェイスブックを通して知り合いになったのだが、まさに世代を超えてのつながりができるのはネットの魅力、利点であろう。

こんなわけで、我がフェイスブックはわたしのヘタクソな英語とロブのヘンチクリンなローマ字日本語とでにわかににぎやかになっている昨今だ。

さて、現在はオマーンの大学で英語教授をしているそのロブが久しぶりにフェイスブックにメッセージを残していた。

「Hi, genki?  今、妻が働いている北欧にいる(奥方も英語教授で北欧の大学で教えている)。来週にはロンドンで開催される父の生誕100年記念の絵画展示会のオープニングのため、英国へ向かう。それからアメリカだ。」

そう言えば、大阪で知り合った当時、父は画家、パリでアメリカ人の母と出会ったのだ、兄貴がいる、と言っていたのを思い出した。人のことを根掘り葉掘り聞くのは趣味でないわたしは、取り立ててどんな画家?など、彼に訊ねることもしなかった。

しかし、ロンドンで生誕100年記念の展示会と聞いて、苗字から検索してみると、あららのら、Wikipediaに載っているではないの。 そのお父上の顔写真を目にして、「きゃ!ロブそっくり!」、いや、ロブがお父上にそっくり!、であった。 経歴には抽象画家とあり、国内外で数々の賞を受賞しており、その作品の多くは国内のアートギャラリーなどで展示されている。家族としてロブの名前も記されていた。

ロブはと言えば、奥方との共著でケンブリッジ大学出版のTOEC 試験受験用の本を出している。わたしはこれらのことを今回検索するまで知らなかったのであった。近頃の、メッセージに残すわたしのハチャメチャな英語を目にして、アハハハ、ロブめ、「おい、Yuko。なんちゅう英語だ」と、内心目を回しているに違いない。

わたしがロブと知り合ったのは大阪で、「ずっこけ3人組」とわたしが呼ぶところのもう一人のメンバー、アメリカ人のブルースを通じての、今から37、8年も昔のことだ。彼が持病の喘息を抱えながら吸入薬を肌身離さず、ヨーロッパ、アジアの行く先々で、英語講師をし、費用ができたところで次の国を目指すという、バックパッカー世界一周旅行をしていた途中でのことだった。

イギリスの大学を出てしばらく役所に勤務後にこの旅行に出たと聞いていたから、ツーソンを出て南米を回り、恐らくその後、自国に帰国して大学院で再び学んだのだろう。あの頃の彼は、旅での記録の日記を常に書いていたのを覚えている。

もしかしたら、いずれ、世界旅行記でも出すのかもしれないと思い、「わたしのこと、変な風に書かないでよ!」などと、時々冗談めかして言っていたのだが、あの旅行記録はどうなったのだろうか。ロブが旅行記を出していなかったら、彼が書くよりもわたしが先にこうして彼のことを取り上げているとは、夢、ご存知あるまい。

喘息という持病があったので自分が60過ぎまでも生きられるとは思ってもいなかった。数年後の退職後にはどこか気候のいいところに落ち着くつもりだ、とは彼の言。その「数年後」も迫っている。

ロブよ、ポルトガル南部アルガルブ地方は年中いい気候だし、定年後、移住して来ているヨーロッパ人がたくさんいるよ。なんだったらポルトガルに来る?世界を歩き回った彼とは比べられないが、わたしも生きる意味も求めて、若い頃はあちこち彷徨したものだ。そうした二人がポルトガルを終の棲家にするとしたら、これもまたなんと奇遇な話ではないか。

「人生はからくりに満ちている」と、写真家、星野道夫さんは言っていた。そうしたら、またひとつのからくりがほどけることになる^^ そんなことを想像しながら、彼が最終的にどこを落ち着き場所に決めるのか、実は楽しみにしているのである。

追記:現在、彼はアメリカで老後を過ごすために家を手に入れ住んでいる。


アリゾナの空は青かった:最終章「ケンターッキー・イン、今も変わらぬままで」

2018-06-11 19:31:21 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月11日

さて、皆様、「アリゾナの空は青かった」、実はまだまだお話していないことはあるのですが、ずらずら書き連ねて、もう24までも来てしまいました。そろそろ閉じてもいいとこまで来たと言えましょう。

思い立ったら前後も考えずすぐ実行するわたしのその即行動力に一番驚いたのは、恐らく春に母国ポルトガルへ帰国することとなっていた彼の人(現夫)でしょう(笑) 

空港まで出迎えに来てくれた二人の友人とそのままアサヒ・ビアハウスに向かったわたしをいつものように迎えてくれたのは、相変わらずの常連たちである愉快なアサヒの仲間でした。アパートは引き払い、家財道具という道具は一切合財売り払って渡米したわたしです。行くアテもなく、まさに「ふうてんのyuko」の名にふさわしく(笑)、その日の宿のことも考えず、アサヒの仲間達との再会にビールで乾杯し、歌姫カムバックでした。


オフィス時代のチーフと仲間たちがさっそくビアハウスに顔出しに^^



翌年、1979年3月の婚姻の事務的手続きまで、わたしはどこにいたかと言いますと、今では「かつらぎ山房」の持ち主となっている我が親友、みちべぇのご両親宅にしばらく居候したのでした^^

今は亡き我が親友のお父上の「娘3人がもう一人増えて4人になったとて、どうということはなし。うちへいらっしゃい。」の一言には、人を大きく包む人生哲学がうかがえます。わたしは親友みちべぇの三姉妹の家に転がり込み、乙女四人で枕を並べて寝たのでした。

みちべぇとわたしの関係はと言うと、彼女はわたしが勤務していたオフィスの後輩で、7つ8つ年下です。後先考えずに行動に移すわたしとは対照的に、彼女はおっとり型。それもそのはず、京都のダ○女卒ですが、芯はしっかりしています。どういうわけか気が合い今もって交流が続いています。

さて、3月のわたしたちの婚姻届には二人の証人が要り、一人はみちべぇ、そしてもう一人は、これまたいつの間にか帰国していた、かつての会社の同僚であり、アメリカ留学の下宿時代の同僚でもあった「ザワちゃん」であることを付け加えます^^

ザワちゃんと我が親友みちべぇ

夫とわたしはセレモニーは特別にしませんでした。届けを出した当日の夕方に、常連や友人達がアサヒに集いそこでお祝いを受けました^^いかにもアサヒの歌姫、ふうてんにふさわしい。わたしはそれで満足なのです^^

後年、我がモイケル娘に、「おっかさん。結婚式の写真はないの?」と聞かれたことがありますが、はい、ござんせん^^あるのは、二人で正装して写真館で撮った記念写真のみです。

3月、我が夫となった人は、一足先にポルトガルへ一人帰国し、ミセスとなったわたしは、5月の渡航まで今度は横浜の叔母の家に居候。あっちでもこっちでも、居候しては皆様に迷惑かけててきたのでありました。

1979年5月、ポルトガルを3人で新婚旅行することとなる、夫の日本人の親友Dr.D氏と二人で、パリ経由で成田を飛び立ち、生まれて初めてポルトガルという地に足を踏み入れのでした。

この後のわたしの生活は、「ポルトガルよもやま話」につながります。

最後に、先だって初めて、ツーソンの我が下宿先が今はどうなっているかと、住所を覚えているので、検索してみました。当時の女主人が存命かどうかも分かりません。住所と下宿名「ケンタッキーイン」で探ってみましたが出て来ませんでした。何しろ37年も昔のことです。ほとんど諦めかけたとき、ストリートビューで見つけることができました!見つけることができたのは、いやもう、建物が昔と変わりない姿であったからです。
 

1978年のケンタッキーイン。       


現在。

ほとんど変わっていません。まだ、下宿やなのでしょうか。看板はあがっているのでしょうか。こんなこともあるんだ、ここにわたしの青春の一コマがあったのだ。変わらぬ姿でツーソンに建つこの家に再会したわたしは懐かしさと嬉しさで、しばし写真の家に見とれて思い出に浸ってしまいました。


ケンタッキー・イン玄関にて。下はインの飼い猫。


ということで、「アリゾナの空は青かった」、また、面白いエピソードを思い出しましたら、追記させていただくとして、いったんここで閉めようと思います。

今で言う、貧困女子だっわたしが、「アリゾナ大学留学」に漕ぎつけるところまでに興味のある方は、左メニューにもありますが、「あの頃、ビアハウス」までどぞ。 

アリゾナの空は青かった:Back to Japan

2018-06-10 11:18:55 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月10日

友人MoriとMontereyでしばらくホームステイをしながら、わたしはサリナスにあるアダルト・スクールをあたってみた。サリナスはスタインベックの「エデンの東」の舞台になった小さな町である。

これは自分がアメリカに居残るとしたら、を考えてのことだ。当時のアダルト・スクールと言うのは、年齢に関係なく、そして、時には国籍も関係なく、市民が英語やカルチュア関係の勉強ができる夜間学校である。また、アメリカの大学には、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスがあり、必修単位を修めれば、学位やCertificateも貰え、これらのコースは学費が安いと聞いていた。

常々、わたしが思うことだが、色々な理由で大学へ行くことができない、あるいはできなかった人に、勉学の機会を与えてくれるアメリカと言う国のこのような制度の素晴らしさである。

少子化で学生定員を割る大学も今後大いに出てくるだろう、日本の状況を考えると、どうして定年退職して時間をもてあましている団塊世代を大学に呼び込まないのだろうかと、わたしは思うのだ。日本の大学で学ぶには、日本語が必須である。経営のため定員数を埋めるために、下手に日本語もろくすぽ理解できない海外からの留学生を際限なく呼び込むより、この方法に目を向ける価値はあると思うのだ。

もちろん、団塊世代は年金生活者であるから、入学費、授業料は正規の学生より大いに下げる必要がある。定員に満たないがため、志望者全員入学など愚かな策をとって日本の最高学府の学力を下げてしまうより、わたしの提案する策の方が、若い人と人生経験者である年配者との交流を生み、老若男女、切磋琢磨することで、キャンパスそのものに活気が溢れ、学力向上にもつながると考えるのは、わたしだけだろうか。

これはわたしの持論なのだが、大学入学において経済的な問題を抱えていても、頭がいい人には、周囲のサポートがあったり、大学入学時の成績によっては授業料免除などの制度があったりと、なんとか道が開けるのである。

経済的な問題を解決できるひとつの方法として「学生奨学金」があるではないかと言うかも知れないが、それで学費をまかなうことはできても、生活費がいるのである。都市の大学に通うのであれば尚更だ。生活費を稼ぐために日夜バイトづくめでは、学業に支障をきたすこと明確であり、奨学金を受けながら勉強するとしても、親が生活費を支援しない限り経済的な問題はまだ残る。これは娘を日本の大学に送り出して奨学金を受けさせ、生活をサポートした親としての経験があるから言える。

頭脳明晰とは行かなくとも向学心に燃える若者はたくさんいると思う。そのような若者が経済的な理由で進学を諦めることは往々にしてある。アメリカの大学のように、学部レベルと院レベルの夜間社会人クラスはこういう環境にある若者たちのみならず、向学心のある年配者にも勉学する機会を与えることになり、しかも、少子化で困難な大学運営の改善につながるのではないかと思うのだが、どうだろうか。

留学記が横道にそれてしまったが、さて、ESLコース終了後は、できればアメリカの大学で勉強したいと思い、準備していった高校時代の成績証明書をアダルト・スクールの事務所で示したときに、それを見た事務員が笑ったものである。
「あら、あなた、国語や英語は抜群なのに、家庭科は2・・・あはははは」 恥ずかしながら家庭科はまったくやる気がありませんでした(笑)

そうして、一応の道はつけておき、Moriとは別れて再びツーソンへ引き返した。そうです。前のエピソードで書いたとおり、サンフランシスコでこの時別れたわたしとMoriは、その後20年は会う事がなかったのである。

6月に入ると、アリゾナ大学ESLコースの最終試験が始まり、アメリカではお決まりの卒業パーティーが市内のホテルで行われた。講師も生徒も着飾りの食事会兼ダンスパーティーである。留学生学生も一人また一人と少しずつ帰国して行った。

最初のエピソードで出てきたバッグパッカーの我が友ロブは、自分の世界一周旅行の残り半周を続けるため、この頃既にメキシコへ渡っていて、
「Hey,飛行機の操縦を習っている。こっちへ来ないか?」と古代遺跡のある町から絵葉書でお誘いがかかった。
「来ないかい」ってあぁた、ギター抱えてストリートコンサートしながら世界一周するなんて(ロブのアイデアw)、わたしゃそんな訳にはいかないのだよ^^;

書いてはおりませなんだが、広島で研究していた現夫とは、3日にあげず航空便のやり取りをしており、この頃受け取った手紙には、「来年3月にはポルトガルへの帰国が決まった」とあった。「アメリカに残るべきか、残らざるべきか、That is a question」なんて、ハムレット気取りで、わたしはうんと考えた。

今でこそ、格安、自由に飛行機で移動できる世界の距離ではあるが、1970年も終わろうとしていた頃、アメリカに住んでしまえば、ポルトガルとアメリカの距離は、考えただけで遠く感じられ、恐らく永遠に彼と再び会うことはないであろう。これが彼に会う最後のチャンスだ。そう分かったとき、「Back to Japan」だ、これしかない!自分の心の聞いて素直に従うのがわたしの生きる道である^^

ESLコースの終了証明書もなんのその、いったん決めたが最後、spacesis、後も振り向かず唖然とするツーソンの友人達を振り切って、LA経由でさっさと大阪へ引き返したのであります。(笑)

到着した伊丹空港には、和歌山は「かつらぎ山房」の主こと、我が親友「みちべぇ」と、「あの頃ビアハウス:グッドチーフ・バッドチーフ」で登場している「グッドチーフ」とが待っていてくれた。日本ではもはや行くあてもない風来坊のわたしは、出発したときと同じ白い旅行かばんひとつを引きずって、そのまま空港から3人で梅田新道にある、我が心の古里、そして、わたしにアメリカ留学資金を作る機会を与えてくれた「アサヒ・ビアハウス」へと直行したのであった。

次回は「アリゾナ留学記」最終回です。


1978 年夏。半年後に再び梅新アサヒビアハウスの入り口をくぐることになろうとは。

アリゾナの空は青かった:我が友Mori

2018-06-09 08:23:45 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年6月9日

ポルトガル時間、真夜中の3時ごろ、電話が鳴る。夫が枕もとの受話器を取り、英語で受け答えする。
「Moriからだよ」
するとわたしは眠気まなこをこすりながら、起き上がって玄関口に備えてある親子電話に出る。
「おい、今そっち何時?」
「夜中の3時です~」
「うん。それでさ」(なんで、それでさ、なのか。笑)

こうして始まるアメリカとポルトガルの真夜中談話(笑)向こうは少々お酒も入ってご機嫌なのである。
わたしには少しアイツの気持ちが分かるのだ。お酒が入ったりしてちょっと気が緩むと、とたんに日本や日本の友人が恋しくなる^^。どんなに異国に長く住んでも、そこでの生活に根をおろしていようとも、そういうときにはたちまちに、祖国へのノスタルジアが頭をもたげて来て取り込まれ、やるせない気持ちになるのが。人恋しくて母国語で思う存分話したい思いに駆られる。深夜の国際電話は決まってこのMoriなのである。

移住するつもりのわたしが半年で日本へとって返し、カリフォルニアに短期間ホームステイする予定の彼が、その年の秋からMontereyにある大学院に入学し、奨学金とバイトで頑張り通して現地学生を尻目に主席で卒業したのには、随分驚いた。

卒業と同時に、2年間付き合って来たアメリカ女性と結婚し、男3人女1人の4人の子供にめぐまれ、院で取ったコースとはまったく関係のない、バイト時代の延長そのままに、日本庭園師の事業を起こしたのにもまた、少なからず驚かされた。今では、市の請負までするようになり、30人ほどのアメリカ人も雇用していると言う。

人生はなって見なければ分からないものだ。だからこそ面白い。

電話で手紙でとお互いの近況を知らせ合いながら、「いつか会おうぜ」の合言葉が一向に現実味を帯びず、お互い日本へ帰国してもすれ違うばかり。そうこうしているうちにいよいよ、20世紀も終わろうという年に入ったある日、
「おい、俺たち20世紀が終わる前には、会おうぜ!」ということになり、いよいよもって、彼は娘を、わたしは我がモイケル娘をお供に、4人で家族旅行をしようとあいなった。

実はしょっぱなから勘違いですれ違い(笑)。大阪から新幹線で上京してくる彼らと、わたしはプラットホームで会うものと思い、MoriはMoriで、東京駅のご存知「銀の鈴」で会うものと・・・^^;その年は殊の外暑く、ホームを行ったり来たりのあげく、妹を連絡口とし、約1時間後にやっと「銀の鈴」で20世紀最後、20年ぶりの再会を果たしたのであった。
「俺の出世祝いだ」と言って、アメリカで用意して持ってきた日本国内一週間のJapan Rail Pass周遊券を贈られたわたしとモイケルは、東京を振り出しに彼らと東北の旅へと向かった。しかし、なんせ酒には強いヤツ、おまけに20年間の話が溜まりに溜まって汽車のなかでも宿でも喋るわ喋るわ(笑)

行く先々で、「僕ら、家族ではありまへんねん。こっちのアネさんはポルトガルから、でボクはアメリカから。夫婦でのぉて、友だちでんねん。20年振りに日本で再会して旅行してます~」と聞かれもしないのに説明に走り、相手をキョトンとさせるアイツ^^ わたしはホテルの方がいいというのに、「せっかくの日本や、旅館やで。温泉やで」と言って譲らないアイツ。

前の晩、遅くまで飲んでたと言うのに、朝方早く5時頃にはもう起き出して、一人サッサと温泉に浸かり、部屋に帰ってきては、まだ寝こけてる3人を「Hey, guys!」とたたき起こし、またまたわたしを朝酒につきあわせるアイツ。二人の女子は逞しくも抵抗して、朝っぱらから部屋で大声で話し、大笑いしている大人二人を尻目に、頭から布団かぶって徹底的に寝入っていたのであった(笑)

「一杯のコーヒーが欲しい」と言うわたしに、
「お前、コーヒー中毒ちゃうんか?」 何でやネン・・・
「自分はどうやねん!お酒飲み過ぎちがうんかい!」とは、周遊券をいただいてしまった手前、よう言いまへん^^;

モイケル娘と彼の娘が生まれて初めての温泉だ、共に裸になって入るのはいややと言うに、「何事も経験や。入るまで出てくるな。」(笑)と言い張って譲らないアイツ。結局、二人はどうしたかと言うと、片方が入ってる間は、もう片方が脱衣場で待ってる、ということをしたようで^^;一応入るのも出るのも一緒ということでw)しっちゃかめっちゃかのヤツには、いい加減閉口気味のわたし、彼の娘に
「お父さん、うちでもああなの?」
「Yah」(←娘日本語話せないのだ~~w)
「お母さん、たいへんだね^^;」
「Yah, でも彼女、辛抱強いから。アハハ」

結局わたしたちは3日一緒に過ごしただけで、彼のバイタリティーに完敗w 四日目にして、彼らは更に北上して北海道へ、わたしたちは知人が待つ福島へと、我が故郷弘前の駅で二手に分かれたのであった。アイツを見送った後のわたしたちの姿、想像あれ(笑) モイケル娘、即、「おっかさん、疲れた~。」 もうあごを出してへなへなであった。(笑)

「俺ね、大阪でお前に会ったころ、やけくそになってたのよ。外大出てもずっと仕事につけなかった。オヤジもお袋もとっくに死んでたし、オヤジはあっちの人間だしね。お前がけっこうな歳(どういう意味じゃい!)食ってるのに、アメリカ行きの夢持って働きまくってるの見たら、俺も頑張る気になってよ・・・」

旅で初めてそんな話をしたのであった。

いいじゃないの。手紙と電話の交流だけで20年も続いたアイツとわたしの友情だ。少々疲れた再会ではあったが^^そして20世紀最後の思いのたけが叶ったとでも言おうか、ここず~っと、お互い音沙汰なしではある。

しかし、わたしは信じてるのだ。
いつかどこかから、「おい、会おうぜ。お前がくたばる前に、もう一度よ」と、深夜コールが入ってくるだろうことを。