ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

在住44年目に:月日は流れ私は残る(1)

2022-06-09 01:48:07 | ポルトガルよもやま話
2022年6月8日

自分用の、また子供たち、孫への私の人生ノートメモとして数回に分けて書いておきたい。以下。

1979年5月19日に、パリ経由でポルトのさびれた小さな空港に降り立ちました。今でこそサ・カルネイロ空港と名がつきすっかりきれいになりましたが、当時は昨今のようなにぎやかさがなくちょっと不安になるような田舎の空港でした。10年を4周りも遡る若かりし日のことです。

大阪での一人暮らしでは給料からの貯金はなかなかできませんでしたが、仕事が退けた後9時までのビアハウス歌姫バイトを数年続けられたのはラッキーでした。それで貯まったお金を持ってアメリカ留学、できればそのまま移住をと思っていたのが、気が付けばポルトガルです。

持っていたお金はアメリカ留学で使い果たし、ほぼ無一文でポルトガルの夫に嫁いできたことになります。カーネーション革命5年後で、まだ、独裁政治の影が色濃く残っていました。

近所の年端もいかない子供が、「ファシスタ!ファシスタ!」と棒っ切を野良犬に振り回していたのには、ギョッとしたものです。そんな言葉はここに来るまで映画の中でしか耳にしたことがありませんでしたからね。

ポルトガル語が全く分からずあの頃は英語が話せる人も周囲にほとんどいなかったので、たちまちのうちにホームシックにかかり、お姑さんたちと同居の家の一室のベランダから空を眺めては涙したものでした。女性が一人でカフェに入るなど見られない時代でした。

国際電話など年に一度、奮発してかけるくらいでしたから、日本とのつながりは手紙のみです。、親や友人には心配をかけたくなかったので、愚痴はいっさい書き送りませんでした。ポルトガルでの生活を文字でしたため、いったいどれだけの航空便レターを日本に送ったことでしょう。赤と青のストライプが入った封筒が舞い込む毎に胸をわくわくさせて封を切っていたあの頃の自分を思い出すとちょっと目が潤みます。

よぉ今日までポルトガルに住んだものだなぁと、誰も言ってくれないので自分で言って労をねぎらっておるんです(笑)

日本人もおらず、友もなく。思い切って一人で街に出れば、すれ違う人々からはジロジロ見られ「しね~しね~」と後ろから浴びせられ困惑したものです。いえね、「しね~しね~」は「シネーザ、シネーザ(中国女)」と言っていたんですね。今にしてみれば笑い話ですが、トロリーバスに乗って街へ出、歩くのが恐くなりました。

スーパーマーケット、ショッピングセンターの類は皆無。土日の週末の親族同士のお呼びお呼ばれのお付き合いには悩まされました。なにしろ、「初めまして。Yukoです」の後、言葉が続かないんですから。意地になってポルトガル語なんか覚えてやるかい!なぁんて思ったりしましたからね。あははは。

でも、今にしてみればこれは核家族社会以前の、親族同士が交友を暖め合うひとつの方法だったのです。週末は家族でショッピングセンターへ云々という娯楽の類がほぼなかったのですから、レストランでではなくそれぞれの家に人を招き招かれする、それが娯楽でもあったようです。

言葉が分からず食事も会わなかった私にとって、当時の昼から夜までかかる長時間の食事会は「これ、懲罰かぁ~」と思われるほど苦しかったなぁ(笑)と言うので、今回は当時にまつわる過去記事をひとつ。

某年某月某日 「石畳」
ポルトは悠久の街である。大西洋に流れ込むドウロ川べりから市街中心にむかって、幾重にも丘陵が重なり、段々畑の様を呈して赤レンガの屋根がぎっしり並んでいる。この街では時間はゆっくり流れる。人々は素朴で子供たちは路地裏で日が暮れても遊びまわり、ときおり焼き魚の匂いが漂ってくる。

長崎にある石畳の道は、そのロマンチシズムで人気のあるスポットだと思われます。もしかすると、この長崎の石畳の故郷はポルトガル・スペインではないのかとわたしは推察するのですが、どうなのでしょうか。

石畳もホンの一部であれば、雨にぬれてもロマンチックであるけれど、気をつけないと人も車も滑るんですネ。ハイヒールのかかとはと言えば、まるで石畳に噛みつかれでもするかのようで、どうもいけません。(当時の私は時にヒール付きの靴をよく履いていました)

姿を消しつつある石畳でが、まだそこかしこに残っています。
この石畳はさいころ型の石を敷き詰めたもので、ひとつの面は20年ほどの耐久性があると言われています。

一面が減ってきたところで掘り起こし、面を変えるのです。そしてさらに20年、また掘り起こし面を変えて20年。この単純な繰り返し作業で行くと、さいころ面は6面あるのだから、最後の6面目が減った暁には石畳の道の齢(よわい)は120年!!!

たいしたものです。ひょっとすると目の前に見られる石畳道が100年ほども経っているかもしれません。そこを日常的に歩いているというこを考えると感動的でもあります。

たかが1、2年帰らなかったというだけで、目まぐるしく景観が変わってしまう日本と比べると、なんというこの悠長さ、この頑固さ。え?新道路工事の金がポルトにないんじゃないの、って?それを言っちゃぁ、おしまいよw

時には、ハイヒールのかかとに噛み付き、車もその振動で痛みが早いのではないかと気が気でならない石畳も、ポルトを「悠久の街」とわたしに言わせしめる一因ではあります。

因みに石畳をポルトガル語では「calçada portuguesa」と言い、モザイク模様の石畳も含みます。おしまいに、ヘタクソな一首をば。^^

わがいえの前を流れる悠久の時はゆったり石畳となり 


我が家の辺りは、わたしが来た当時一面林だったのですが住宅地に開発されました。昔、この辺りが林だったとは知らない人が多いでしょう。が、我が家の面する通りは今も石畳を敷き詰めた道です。

読んでいただきありがとうございます。|
ではまた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも海底ケーブルが切断されたら?

2022-04-26 01:00:06 | 日記
2022年4月25日 

2020年の春以来、わたしたちの生活は変わった。会いたい時にはいつでも会えたはずが、行きたい時にいつでも行けたはずが、叶わなくなったのである。ロシアのウクライナ侵攻はわたしたちに更なる打撃を与え、便利だったヨーロッパ日本間、11~12時間の飛行時間も、ロシア上空を通過できないので飛行時間が40年前の昔にもどってしまった。

これらのことは何とか我慢できる。怖いのは、先日、とあるブログで目にした記事、世界の海に張り巡らされている海底ケーブルを、もしロシアが切断した場合、どんなことが起こるかと言う話だ。今ではわたしたちの日常生活に欠かせない通信手段が全て使用不可能になるのだそうだ。

海底ケーブルは世界に447本あり、このうちの10本を切断されるとヨーロッパでは通信不可になると言うのだ。ATMやネットも使用できなくなり、飛行機も離着陸できない。メールが来なくなりニュースも入らない。もしかして、船舶がなんとか動くとして、音沙汰を連絡し合う手紙も2か月3カ月かかる?

コロナ禍とロシアのウクライナ侵攻でそう簡単に帰国はできないが、それでも今はどうしてもという時の帰国の手段はある。が、海底ケーブルが切断されたら、子どもたち、孫、妹、友人たちにいつ会えるか全く分からなくなるということだ。日本の食べ物よりなによりそれが一番辛い。考えたらゾッとする話ではないか。

「待てば空路の日和あり」だ、がんばろ、なんて書いたのは数日前のことじゃん。あはは ウクライナのネット網を使えないようにしたプーチンのことだ、何をしでかすか分からんと、こんなことを考えては、また気持ちが揺らぐ自分にうんざりしているのだ。

わたしは毎朝、ネット上の新聞やブログを通して日本のニュースを見聞きしているのだが、その中にYAHOO!JAPANがあった。ネット新聞は肝心の読みたいニュースが有料だったりしてがっかりすることが多いのだが、YAHOO!JAPANは盛りだくさんのニュースで海外在住の日本人のニュースソースに役立って来たと思う。
それが、今月上旬を持ってヨーロッパからはアクセスできなくなってしまったのである。たったそれだけの不可なのに、随分と不便になってしまった感がある。

ましてケーブル切断でインターネットが全く使えなくなったとしたら、と想像するだに恐ろしい。

また、ポルトガルでは人々は現金を持ち歩かない。カフェを除いてはほとんどがカードでの支払いだ。夫にこの話をして、「あのね、万が一ATMやカードが使えないってことがあったりしたら大変だから、ある程度の現金を用意しておかない?」ともちかけたのだが、あははと笑ってお仕舞い・・・

いいのだ、あたしはちゃんとヘソクリで現金を隠し持ってるのだぞ、へへ。とはわたしの内心のつぶやきだ。我が東京息子は、友人が税金の支払いを溜めていたがため、ある日突然、口座が差し押さえられてカードが使えず手元に現金を置いていなかったので、えらい目にあったとのこと。息子が貸したお金でしばらくなんとかしたらしい。その話を聞いて以来、息子はある程度の現金を持って置くことにしたのだそうな。

本当は、コンピューターのなんたるかを知らずしてパソコンを使っているわたしなのだが、この歳になって便利さに振り回されているのが時に頭にくるのである。頭に来ながらも、世の中の変化についていけないと言うのも癪なのだ。知らなければ心が乱されないのに、あちらこちらでニュースを拾っては、怖いかもなぁと今日もつぶやいているわたしだ。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断捨離もいいけれど

2022-04-22 07:08:07 | ポルトガルよもやま話
2022年4月21日

「断捨離」なる三字熟語のこの字から「思い切って物を捨てることだろう」と想像していたが検索してみると、「断捨離とは、断行、捨行、離行というヨガの行法であり、人生や日常生活に不必要なものを断ち、捨てることで物への執着から開放され、人生に調和をもたらそうとする生き方」を言うのだそうだ。なるほど、単なる整理整頓とは一線をひくということである。

しばらく前からそろそろ我が家のガラクタの類を処分しようと思い、暇を見て整理しては人にあげたり捨てたりしているのだが、当時起こした小火(ぼや)で、我が家に半年ほど同居していた義兄が、家もやっと修繕できところで整理を思ったのであろうか、家の屋根裏部屋の整理をし始めたときのことだ。

母親が生きていたころは彼女に会いに、その母親が亡くなり、次はその家にひとり住んでいる兄の話し相手にと、毎晩食後そちらへ出かけるのが習慣の夫だが、ある夜、中サイズのなにやら古びた箱とプラスティック袋を手に提げて帰ってきた。「兄貴がこんなのを屋根裏部屋で見つけたよ。」と言う。

箱を開けてわたしは思わず「うわ~!」と声をあげずにはいられなかった。目の前に姿を現したのは我が東京息子の赤ん坊時代から幼児期にかけての玩具であった。





懐かしさに、授業準備をしていた手も止めて、ひとつひとつ箱から取り出し、手に持っては眺めたわたしだった。特に記憶に残っているのはケロヨン人形と、息子を風呂に入れる時、毎回風呂場の水槽に浮かべた黄色いアヒルのゴム人形だ。息子のお気に入りで、キャッキャ喜んでは風呂に入っていた遠い昔の息子が思い出された。

こんなものを屋根裏部屋に保存していたことすらとっくの昔に忘れてしまっていた。目の前で突然タイムカプセルが開けられたような思いだ。この中のひとつでも息子の記憶に残っているものがあるだろうか。

モイケル娘が生まれるまでの6年間をわたしたちは夫の母の家に同居していたのだが、嫁姑事情はポルトガルと言えども同じ。周囲に愚痴こそもらさなかったが(日本人がおらず愚痴をこぼそうにも相手がいなかったのではあった。笑)、こ6年間はわたしなりに大変だったものだ。息子の誕生はそんなわたしと義母や当時同居していた夫のおばたちとの潤滑油になっていたと思う。

不意に現われた息子の赤ん坊時代の玩具を目の前にして懐かしさと同時に「もう日本へ帰ろかな、帰るのよそうかな」と日々悶々としていた若かりし自分の姿が思い出されもした。

だが、振り返って見れば、義母たちと同居の6年間こそ実にわたしがポルトガル人の生活と言うのに直にふれた期間であった。たまの行き来だけでは分からないことが大いにあるのだ。

それらの経験も今になってみれば全てよし。思い立ったら一目散のイノシシの性格そのものだった自分に「辛抱」ということを知らしめてくれた貴重な時期であったと今は思える。

断捨離も家の中がすっきりしていいけれど、すっかり忘れていた思い出が古い物を通してこんな風にふいに蘇る時に出会うのもいいかも知れないなぁ。

開けたおもちゃの箱はあたかも竜宮から帰った浦島太郎の玉手箱のごとし。太郎が開けた玉手箱に見たのは、遥かな昔にまつわる、取り戻すにも取り戻し様がない時間だったのかも知れない。

「たちまち、太郎はおじいさん」と、ふとそんな歌が耳をかすったような気がしたが、なんの!とそれを振り払った。時の流れはそれなりに認めるが、まだ逝かないわよ!と、授業のやりかけのテキスト作りで再びpcに向かった。

本日も読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドウロ川渓谷:先史時代の岩絵を見に3

2022-03-21 21:44:03 | ポルトガルよもやま話
2022年3月21日

コア渓谷の岩絵の存在は古くから噂があったと言われる。話題に上り世論を沸かせたのは20世紀に入ってからだ。1995年にポシーニュダム建設予定地としてコア渓谷の調査を開始したところが、渓谷沿い数キロに渡り岩絵遺跡群が発見されポルトガル政府はダム建設を中止した。現在はスペインのSiega Verde(スェガ・ヴェルデ)一帯の岩絵群も加わり、世界遺産に登録されている。


四駆ジープを降りて本の少し歩きます。 


案内人の女性は古学者であろうと推察。説明がとても面白かった。夏のきつい日差しアレルギーがあるわたしは太陽光線を避けるため完全武装で出かけたというのに、この方、それに同グループの若い人たちはみんな強い日差しなどお構いなしですw


これまでに発見されている岩絵の多くは洞窟に描かれているのに対し、コア渓谷のは世界でも最大規模の野外岩絵だそうです。


案内女性のポルトガル語フランス語の説明が一通り終わったところで質疑応答です。



1万年、2万年前の岩絵を前にした時は何本もの線が重なった絵であるため分かりにくかったのですが、しばらくじっと見ている間に漸く絵が見えてきました。


拡大してみましたがわかりますか?「↓1」は牛もしくは馬の横向きの顔の部分です。

「2↓」は牛です。角を含めて体全体が描かれています。腹部の膨らみ具合、頭部の動物の特徴を見事にとらえた素晴らしい線画です。 


人間のみが古代からこのような芸術性を備えていたのに感嘆します。岩の面に幾重にも重ねて線画が描かれているのは、この面が描きやすかったのだろうかと色々思考をめぐらしてみる。



描かれている絵はどれも幼稚なものではありません。見事に活動的に描かれています。

すぐ側に今では小さくなった小川も見られます。古代にはここは魚捕獲の場でもあったのでしょう。




本の少しだけ岩山を上ります。ここにも数多くの岩絵が刻まれているとのことですが、ここより上はツーリスト踏み入れ禁止です
 

Penescoaでは3箇所の岩絵を見て、山小屋を後に出発点のCastelo Melhor(カステロ・メリョール)へと引き返し所要時間はほぼ1時間半。写真から分かるようにこの日が曇り。出かける前にポルトガル人の知人に散々脅されていたもので高温でなかったのは、わたしにとって幸運でした。


下はVila Nova de Foz Coaの小さな町とモザイクタイルです。


ここにも岩絵が使われています。


Foz Côa先史時代の岩絵はこれで終わりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドウロ川渓谷:先史時代の岩絵を見に2

2022-03-15 22:35:21 | ポルトガル旅行
2022年3月15日

ロックペインティング、つまり岩絵と聞けば、レイフ・ファインズ主演の映画Inglish Pacientの冒頭シーンが思い浮かぶ。



筆で何かをなぞっているのだが、それはサハラ砂漠にあるCave of Swimmers(エジプト)の岩絵のひとつなのであった↓


岩絵の代表的なものと言えばアルタミーラ洞窟壁画だろう。(1万400年程前)


随分昔になるが、子供たちが幼かった頃、家族旅行でピレネー山脈を越えた1980年代初期に、わたしたちはこの洞窟絵を見に立ち寄ったのだ。今ならpcで前もって調べていけるのだが、その時は情報もなく直に訪ねた。しかし、日に数人の限られた人数でしかも予約でしか入ることができず、諦めざるをえなかった。現在は外気に触れて痛みがひどくなっているとのことで非公開である。

若い時分からオーパーツが好きなわたしわたしは古代の興味深い岩絵を本の中で幾つも目にしてきた。


↑同じくサハラ砂漠(アルジェリア)、タッシリ・ナジェールの岩絵。


↑イタリア北部ヴァルカモニカ岩絵のひとつ。約1万年前のものと推測される。

非常に興味深いものでは、ウズベキスタンのパイロットと呼ばれる紀元前に描かれたとされるフェルガナ岩絵.がある。ここには明らかに宇宙飛行士と未確認物体が描かれている。これを見てわたしは大いに人類起源史に想像を膨らましたものだった。



さて、古代のロック・ペインティングの殆どが洞窟で発見されているのですが、コア渓谷には洞窟がなく岩絵は野外でそのままむき出しになっています。岩絵は60数箇所で発見されているそうですが、現在訪問できるのは「Canada do Inferno, Penascoa, Ribeira de Piscos」のは3箇所のみで、(下図の青○の所)予約を入れ7、8人のツアーで行きます。



わたしたちが今回訪れたのはPenascosa(ペナスコーザ)の岩絵です。総人口が220人ほどの集合場所、Castelo Melhor(カステロ・メリョール)という小さな村に入ると目前に見えてきたのがピラミッド型の小さな山です。



う~む・・・ここの岩絵に上記のようなオーパーツ的絵が発見されたとしたら、この山も発掘してみる価値があるかもと、しきりにカメラを向けたのでありました^^;


ここからジープで出かけること、往復1時間半のコースです。ここから先の道は一般者は入れません。


わたしたち3人を入れて8人のツーリストで午後4時半に出発です。前方に見えるのが道。昨年訪れたポルトガルの秘境の山道に劣らず(後記にて案内)狭い凸凹道で冷房なし(笑)なもので、土ぼこりをモロに被ります。

この日の女性ガイドさん、説明が実に上手く楽しい人でした。帽子、グラサン、首には大きなスカーフ、長袖にもちろん長パンツ、更に手袋姿のわたしを見て、完全武装ね!と笑っておりました。彼女の説明によると、夏は50度を越えるのが普通なのだが今年はいったいどうしたの!というくらい気温が低い30度以下、この日の天気は曇って陽が隠れていたので半死を覚悟していったわたしなどは大助かりと言うもの。


15~20分ほどして岩絵が見られる現場に到着しました。

あたりはゴツゴツした岩山です。


続きは次回に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする