読書の記録

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戦争と広告

2018年08月22日 | ノンフィクション

戦争と広告

馬場マコト
潮出版社

 

 広告は時代をうつす鏡だと言われる。では、その時代が戦争だったら。

 この物語は、太平洋戦争時に、日本国内の戦意高揚のために様々な広告をつくりあげてきた集団「報道技術研究会(略称は報研)」についてのものである。当時のあらゆる産業が戦争に加担したように、広告業界は広告でもって戦争に加担した。

 

 報研の中心人物は戦前は資生堂で広告をつくっていた山名文夫、森永製菓で広告をつくっていた新井静一郎ほかであった。当時は電通などの広告代理店はまだ広告原稿を制作する機能がなく、広告の制作はそれぞれの企業で内製されていた。資生堂も森永製菓も、戦前においてその広告のクオリティは極めて高い水準だった。

 すなわち、優れた広告表現の作り手の集合体だったからこそ、「報道技術研究会」のつくるプロパガンダは、あまたの粗製乱造された戦意高揚の宣伝物の中で抜きんでて質がよかった。「質がよかった」というのは人々の気持ちを駆り立てたということである。戦意高揚として。

 それは、なぜ日本が戦争をしなければならないかを説くものだったり、英米を鬼畜と思わせるものだったり、銃後のみんなも贅沢は敵だと思わせるものだったり、少年たちを飛行士に憧れさせたりするものだった。

 「報研」に仕事を発注するのは政府すなわち大日本帝国である。内閣情報局や翼賛会といったところが報研に仕事を発注した。報研の人たちも、決していやいやながら仕事にとりくんでいたわけでも、仕事のためとわりきっていたためでもなく、つくるならば一級のものをつくりたいという素朴な情熱の中でコピーを考え、構図を思案し、レタリングに凝った。いい仕事をするから、次々と仕事がきた。

 「報研」は終戦と同時に解散した。メンバーは古巣に戻ったり新たな仕事に就いたりした。

 

 そういう物語だが、非常に虚無感というか重層的というか、いろいろ考えさせられる読後感であった。広告業界は広告技術でもって戦争に加担した。業界の数だけ似たような話があったということだろう。本書でも絵画界や文学界での類似の動きに触れている。なまじ腕がよかっただけに、国民を鼓舞する力も大きかった。

 それぞれの業界関係者が、無心におのれがもつ追及心の中でこうやっていつのまにか本人の意識以上に戦争に加担していったのだろう。やりきれない気がする。

 

 そういう読み応えを感じただけに本書の「あとがき」は蛇足な気がした。著者は広告のクリエーターが本職とのことなので、報研のメンバーには同情的であり、彼らの広告づくりの熱意に共感している。このあたり、ゼロ戦開発に熱意を注いだ堀越二郎を題材に映画「風立ちぬ」をつくった宮崎駿を彷彿させる。報研をかばいたい著者の気持ちはわからなくもないが、「あとがき」にて、悪いのは彼らに仕事を発注した情報局や翼賛会の担当者であり、広告屋は受けた仕事はぬかりなく全力でやることを喜びとする人種なのだ、という言い方をしてしまったのは勇み足だろう。それをいうなら情報局や翼賛会の担当者も官僚機構の上位下達のシステムで目の前の仕事をやったに過ぎないという言い方だってできるし、このように罪の意識なく結果的に悪に加担するという人間の所業についてはハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」をはじめ、もっと高次元かつ内省的に考えようとした人が戦後たくさんいたことを忘れてはいけない。「あとがき」にて誰が悪くて誰が悪くないかという話をしてしまうことで、全体の品位をさげてしまったうらみがある。この物語は本編で立派に完結している。

 

 冷戦中、世界の人間が死滅してもなお余りあるだけの核弾頭が開発し続けられた。最終処分の方法が決まらないのに原発は世界のあちこちで造り続けられ、運転され続けられている(放射性廃棄物には10000年以上の監視が必要とのこと。知っててやってるのならば狂っているとしかいいようがない)。AIがどんどん進化して人間の手に負えなくなると言われていても人間はAIの開発を止めない。破滅の予感があっても人は「止まらない」。

 この物語は「止まらない」という人間の原罪を描いている。



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